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2014年9月22日月曜日

「痴漢ファンタジー」について、あなたはどう思う?

レイプファンタジー(女性がレイプされたい幻想)があるなら、痴漢ファンタジー(痴漢されたい幻想)もあるのだろうか、などという捏造された問いを発してはならない。

1973年から2008年まで、女たちのレイプファンタジーの九つの調査が出版されている。それによれば、女たち10人につきほぼ4人はレイプファンタジーを抱くそうだ(31%~57%)。中位の頻度は、ひと月に一回ほど。

From 1973 through 2008, nine surveys of women's rape fantasies have been published. They show that about four in 10 women admit having them (31 to 57 percent) with a median frequency of about once a month.(Women's Rape Fantasies: How Common? What Do They Mean?

もちろん日本でこんな調査がなされるわけのものではない。「恥の文化」の国である。ましてや痴漢ファンタジーの有無の調査など。

だがどうやらわが国の作家、吉行淳之介やら大江勘三郎は、女性の痴漢ファンタジーを想定しているのではないかと勘ぐることはできるのは、「精神的な痴漢たち」における抜き書きから憶測されうる。

もしいま娘が嫌悪か恐怖の叫び声をあげれば自分はオルガスムにいたるであろうと感じる。かれは懼れのように、あるいは、熱望のように、その空想に固執する。しかし娘は叫ばない。唇はかたくひきしめられたままだ。そして舞台に切られた垂れ幕がおりるように、瞼が不意にきつく閉じられる。その瞬間、Jの両手は尻と腿の拒否から自由になる。柔らかくなった尻の間をなぞって右手はその奥にとどく。ひろがった腿のあいだを左手は正確に窪みにいたる。

そしてJは恐怖感から自由になる、同時にかれ自身の欲望も稀薄になる。すでにかれの性器は萎みはじめている。かれはいま義務感あるいは好奇心のみにみちびかれて執拗な愛撫をつづけているだけだ。そのときJは、ああ、いつものとおりだ、こういう風にすべて容認され、この状態をこえたひとつの核心にいたることが不可能となるのだ、というようなことを冷たくなってくる頭で考えていたのだった。(大江健三郎『性的人間』)

いやいや単なる憶測である。これだけではなんとも言えない。

吉行の『砂の上の植物群』を、上野 千鶴子、富岡 多恵子,、小倉 千加子による『男流文学論』などで《時代遅れの通俗小説》とか、《こんなに女性に無理解な男が、なんで女を知っているということになっているのか》とさんざんに貶されたのは已む得ない。

女は位置を少しも動かず、井村の掌は女の腿に貼り付いている。女も井村も、戸外を向いて窓際に立っていた。掌の下で、女の腿が強張るのが感じられた。やがて、それが柔らかくほぐれはじめた頃、女は腿を曲げて拳を顔の前に持上げると、人差指の横側で、かるく鼻の先端を擦り上げた。女はその動作を繰返し、彼はそれが昂奮の証拠であることを知っていた。衣服の下で熱くなり、一斉に汗ばんできている皮膚を、彼は掌の下に思い描いた。

窓硝子に映っている女の顔を、彼は眺めた。電車の外に拡がっている夜が、女の映像を半ば吸い取って、黒く濡れて光っている眼球と、すこし開いたままになっている唇の輪郭だけが、硝子の上に残っている。

その眼と唇をみると、彼は押し当てている掌を内側に移動させていった。女は押し殺した溜息を吐き、わずかに軀を彼の方に向け直した。その溜息と軀の捩り方は、あきらかに共犯者のものだった。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)

「あきらかに共犯者」だと? 彼女らには「想定外」の、小説のなかの叙述にすぎない。


ところで男性諸君、とくに若く聡明な貴君たちは、女性の「痴漢ファンタジー」には関心がないのだろうか。

ジジェクはどうやら関心がありそうだ。そしてジジェクのレイプファンタジーの論理を援用すれば、痴漢ファンタジーを抱いている女性ほど、実際に痴漢に遭遇したとき、トラウマ的な衝撃を受けるということになりはしないか。それともレイプと痴漢を同列に扱うわけにはいかないのだろうか。

ここに二人の女性がいたとする。ひとりは解放され、自立していて、活動的だ。もうひとりはパートナーに暴力をふるわれることや、強姦されることすら密かに空想している。決定的な点は、もし二人が強姦されたら、強姦は後者にとってのほうがずっと外傷的だということである。強姦が「彼女の空想の素材」を「外的な」社会現実において実現するからである。

主体の存在の幻想的中核と、彼あるいは彼女の象徴的あるいは想像的同一化のより表層的な諸様相との間には、両者を永遠に分離する落差がある。私は私の存在の幻想的な核を全面的に(象徴的統合という意味で)わが身に引き受けるとこは絶対できない。私があえて接近しようとすると、ラカンの主体の消滅(自己抹消)と読んだものが起きる。主体はその象徴的整合性を失い、崩壊する。そしておそらく私の存在の幻想的な核を現実世界の中で無理やり現実化することは、最悪の、最も屈辱的な暴力、すなわち私のアイデンティティ(私の自己イメージ)の土台そのものを突き崩す暴力である。

(ジジェク注:これはまた、実際に強姦をする男は女性を強姦する幻想を抱かないことの理由である。それどころか、彼らは自分が優しくて、愛するパートナーを見つけるという幻想を抱いている。強姦は、現実の生活ではそうしたパートナーを見つけれないことから生じる暴力的な「行為への通り道」なのである。)

結局、フロイトからすると、強姦をめぐる問題とは次のことだ。すなわち、強姦がかくも外傷的な衝撃力をもっているのは、犠牲者によって否認されたものに触れるからである。したがって、フロイトが「(主体が)幻想の中で最も切実に求めるものが現実的にあらわれると、彼らはそれから逃走してしまう」と書いたとき、彼が言わんとしていたのは、このことはたんに検閲のせいで起きるのではなく、むしろわれわれの幻想の核がわれわれにとって耐えがたいものだからである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)

《ラカンは、恥は定義上幻想〔ファンタジー〕にかかわっていると主張する。アガンペンは、恥はたんなる受動性ではなく、積極的〔能動的〕に受け入れられた受動性であることを強調している。私がレイプされた場合、私に恥じるところは何もない。だが、レイプされることに喜びを感じている〔享楽している〕としたら、私は恥じ入ることになる、というわけだ。》(ジジェク『メランコリーと行為』ーー「パンツという制度」)

ーーとだけ引用しようと思ったのだが、同じリンク先に、以前メモしたパンツという「恥」をめぐる井上章一氏の文に再会したので、ここにやや文脈から外れるが、挿入しておく。

彼女達は、陰部の露出がはずかしくて、パンツをはきだしたのではない。はきだしたその後に、より強い羞恥心をいだきだした。陰部を隠すパンツが、それまでにないはずかしさを学習させたのである。(井上章一)

いずれにせよフロイトやラカン、そしてジジェクなど読んでいいことはない。
わたくしのように掠め読むだけでも悪影響がある。

悪く考えることは、悪くすることを意味する。 ――情熱は、悪く陰険に考察されると、悪い陰険なものになる。 (ニーチェ『曙光』76番)

清き正しき青少年や乙女たちは、このブログなど読むべきではない。

ソレルスの小説『女たち』、そこではラカンがモデルであるファルスについて、こう書かれているではないか、《ファルスは十分に滑空しなかったんだな……浸透し、干渉し、妨害し、どこに不一致があるか目星をつけ、そこに居座り、駆り立て、穿ち、悪化させること》。ここにも悪く考え、悪化させる男がいる。

「男と女のあいだは、うまくいかんもんだよ」、ファルスは始終それを繰り返していた …これは彼の教義の隅石だった。彼はそれをいつまでも声高に主張していた …彼が自分の後で根本的動揺をいだく者がもうひとりもいないことを望んでいたのを思えば、享楽の没収、享楽は結局何にもならないということの証明 …だが、それが「うまくいく」ようにできていると言った者がかつていたのだろうか? 面白いのは、そいつが時どき期待を裏切ることができるってことだ …吹っ飛んでしまう前に…もっとも、それがひと度ほんとうに期待を裏切ったとしたら、そいつはとにかく少しはうまくいっている …憎しみのこもった固着に至り着くのでなければ …でもそれだって避けることはできる …ぼくの意見では、ファルスは十分に滑空しなかったんだな …かれはそのことでまいっていたのだと思う …どんな女も彼の解剖学にしびれなかったのだろうか? そうかもしれない …実際にはちがう…気違いじみてもいなかった …後になって「うまくいっている」か、いってないかってことが彼にとってどうでもよくなるには十分じゃなかった …そこから他者たちの生の寄生者たる彼の天性がもたらされる …大いなる天性だ…浸透し、干渉し、妨害し、どこに不一致があるか目星をつけ、そこに居座り、駆り立て、穿ち、悪化させること …ファルスがぼくたちの家でぐずぐずしていたそのやり方のことをぼくはもう一度考えてみる …眼鏡越しにデボラに注がれる彼の長い眼差し …見下げ果てた野郎だ…それは痛ましかった、それだけだ …(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)


《レイプファンタジーって何なのだろう? 私の意見を言わせてもらえば、ほかのファンタジーとの違いは何にもないね。悪いものでもないし倒錯的でもないさ。メンタルな健康にかかわるものでもないし、実生活での性的性向にも関係ない。ただひたすら、おおよそ女たちの半分ほどに起こるだけのものさ。あなたがそのようなファンタジーを抱き気分を悪くしているとしても、どうすべきかは分からないな。でもあなたは独りだけじゃないのだけは受け合っておくよ。レイプやほとんどレイプのようなファンタジーは驚くほどふつうのものなんだ。あなたはどう思う?》(Michael Castleman「レイプファンタジーの統計調査」)

で、痴漢ファンタジーについて、あなたはどう思う? などという問いをやはり発してはならないのだろうか。痴漢ファンタジーの実態が明らかになれば、痴漢は増えるのだろうか? ひょっとして莫迦らしくなって痴漢などしなくなる男が増えるなどということはないか?

魅惑の力がその効果をうみだすためには、その事実は隠されたままでなければならない。主体が、他者が自分を見つめていることに気づいたとたん、魅惑の力は霧散する。(ジジェク『斜めから見る』)

いやいやそんな生やさしいものではない。
いじめが容易になくならないように、痴漢はなくならないのかもしれない。

《国によっては痴漢するぐらいなら最後まで襲う、というのが一般的なのです。それと比べるとまだマシと言えるかもしれません》(「痴漢対策&痴漢冤罪対策まとめ」)などという記述がある(参照:「痴漢文化といじめ文化」)。

長らくいじめは日本特有の現象であるかと思われていた。私はある時、アメリカのその方の専門家に聞いてみたら、いじめbullyingはむろんありすぎるほどあるので、こちらでは学校の中の本物のギャングが問題だという返事であった。ーー「日本人の精神構造・社会構造の鍵概念をめぐる」)

おそらく「痴漢文化」と「いじめ文化」は相関関係があるのだろう。日本では最後まで襲うこと少なく、かつ学校での本物のギャングは少ない。

レイプと暴力が少ないのなら、痴漢といじめは我慢すべきなのだろうか?

2008年のデータだが、「第7回国連暴力白書のレイプ発生率・国別」なるものがあり、それによれば、アメリカは日本の17倍、韓国は日本の7倍となっている。

…………

というわけでこの文は、いささか「倒錯」的な気質をもつ初老の男のーーただし、痴漢めいた振舞いは少年時に一度しかないにも拘わらず、いまだ痴漢行為への心残りをひそかに滲ませている、と読まれることは覚悟の上のーーたんなる「思いつき」に過ぎない。

「倒錯」とは、本来、徹底的に「間接的」であろうとする生の倫理のことである。欲望の昂進からその成就へとただちに進むのではなく、その中間に何ものかを、――「物〔フェティッシュ〕」を、「言葉」を、「演技」を、「物語」を介在させ、欲望の成就をどこまでも遅延させようとするものが、「倒錯」なのである。(……)

「倒錯」とは、何かしら不透明で抵抗力を備えたものの現前を介してしか遭遇が可能とならないという動かしがたい事態を前提としたうえで、そうした梃子でも動かないものの現前にゆっくり馴れ親しんでゆく過程のうちに快楽を見出すといった忍耐強い精神の姿勢のことである。ひとことで、「媒介されること」の快楽のことだと言ってしまってもよいかもしれぬ。(松浦寿輝『官能の哲学』

倒錯の肯定的側面をこのように表現してくれる松浦寿輝はエライ。ただし、男たちは痴漢でなく別の倒錯行為を探し求めるべきではある。

《私の布団の下にある彼女の足を撫でてみました。ああこの足、このすやすやと眠っている真っ白な美しい足、これは確かに俺の物だ。彼女が小娘の時分から毎晩毎晩お湯に入れて》(谷崎潤一郎 「痴人の愛」