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2014年9月30日火曜日

"正義"という「主人のシニフィアン」(バディウ=ジジェク)


バディウは時折、"正義"を主人のシニフィアンとするように提案する。"自由"や"民主主義"のようなあまりにもひどくイデオロギー的に意味付けられ過ぎた概念のかわりにすべきだというものだ。しかしながら正義についても同様な問題に直面しないだろうか。プラトン(バティウの主要な参照)は正義を次のような状態とする、すなわちその状態においては、どの個別の決断も全体性の内部、世界の社会秩序の内部にて、適切な場所を占めると。これはまさに協調組合主義者の反平等主義的モットーではないか。とすれば、もし"正義"を根源的な束縛解放を目指す政治の主人のシニフィアンに格上げしようとするなら多くの付加的な説明が必要となる。(私訳)

41 Badiou, Théorie du sujet, p. 176, as translated in Bosteels, “Force of Nonlaw,” p. 1913. Badiou sometimes proposes “justice” as the Master‐Signifier that should replace all‐too‐heavily ideologically invested notions like “freedom” or “democracy”—but do we not encounter the same problem with justice? Plato (Badiou's main reference) determines justice as the state in which every particular determination occupies its proper place within its totality, within the global social order. Is this not the corporatist anti‐egalitarian motto par excellence? A lot of additional explanation is thus needed if “justice” is to be elevated into the Master‐Signifier of radical emancipatory politics.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")

上の文は、次の文の注である。

As we have said, Badiou supplements the “Sophoclean” couple anxiety‐superego (Antigone‐Creon) with the “Aeschylean” couple of courage and justice (Orestes‐Athena): while the Sophoclean universe remains caught in the cycle of violence and revenge, Aeschylus opens up the possibility of a new law which will break the cycle. However, Badiou insists that all four are necessary constituents of a Truth‐Event: “The courage of the scission of the laws, the anxiety of an opaque persecution, the superego of the blood‐thirsty Erinyes, and finally justice according to the consistency of the new—four concepts to articulate the subject.”41 (CHAPTER 12 The Foursome of Terror, Anxiety, Courage … and Enthusiasm)

バディウの書を読んでいるわけではないので、やや分かにくいのだが、注の文章はバディウの「正義」の主人のシニフィアンを批判(=吟味)していることはわかる。

正義という概念は、主人のシニフィアンになりがたいということだろう。
なぜなら、自由や民主主義と同様、
すでに過剰に意味づけられた概念だから、
という見解であるように読める。

プラトンの正義とは次のようであった。


彼は『国家』のなかで次のように説いています。一人の人間の中には、魂の三つの 部分――理性、精神、欲求――とそれぞれに関係する三つの徳――知恵、勇気、節制―― があり、それぞれが互いと適切な関係を保っている。社会における正義も同じようなもの だ。社会では、それぞれの階級が、他の階級の邪魔をすることなく、それぞれの性質にふ さわしい仕事をこなすことで、それぞれの階級独自の徳を行使している。知恵と理性にあ たる階級は統治にたずさわり、勇気と精神にあたる階級は軍事にたずさわり、残りの部分、 つまり特別な精神や知性はないが節制にすぐれている階級は農業や単純作業にたずさわる。 正義とは、こうした構成要素の間に調和がとれていることなのだ、と。(ナンシー・フレイザー「正義〔正しさ〕について――プラトン、ロールズそしてイシグロに学ぶ」ーー「正義とは不快の打破である」)


プラトンの『国家』における「正義」はこれだけではない、という見解もあるだろうが、やはり『国家』における対話を読めば、ほぼこういう「正義」概念である、とすることができる。

たとえば『国家』には、上の「正義」概念以上に驚くべきエリート偏重の主張がなされている。

「最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方のこどもたちは育ててはならない。もしこの羊の群れが、できるだけ優秀なままであるべきならばね。そしてすべてこうしたことは、支配者たち自身以外には気づかれないように行わなければならないーーもし守護者たちの群がまた、できるだけ仲間割れしないように計らおうとするならば」

(……)
「さらにまた若者たちのなかで、戦争その他の機会にすぐれた働きを示す者たちには、他のさまざまの恩典と褒賞とともに、とくに婦人たちと共寝する許しを、他の者よりも多く与えなければならない。同時にまたそのことにかこつけて、できるだけたくさんの子種がそのような人々からるつくられるようにするためにもね」
(……)

「で、ぼくの思うには、すぐれた人々の子供は、その役職の者たちがこれを受け取って囲い〔保育所〕へ運び、国の一隅に隔離されて住んでいる保母たちの手に委ねるだろう。他方、劣った者たちの子供や、また他方の者たちの子で欠陥児が生まれた場合には、これをしかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまうだろう」

(……)
「またこの役目の人たちは、育児の世話をとりしきるだろう。母親たちの乳が張ったときには保育所へ連れてくるが、その際どの母親にも自分の子がわからぬように、万全の措置を講ずるだろう。そして母親たちだけでは足りなければ、乳の出る他の女たちを見つけてくるだろう。また母親たち自身についても、適度の時間だけ授乳させるように配慮して、寝ずの番やその他の骨折り仕事は、乳母や保母たちにやらせるようにするだろう」

――プラトン『国家』藤沢令夫訳 岩波文庫 上 第5巻「妻女と子供の共有」p367-369
…………

ところで主人のシニフィアンとはそもそもなにか。

ラカンは、‘master signifiers’(主人のシニフィアン)を
‘points de capiton’(クッションの綴じ目)と呼んだ。
どの「主人のシニフィアン」も瘤のようなものであり、
知識、信念、実践などを縫い合わせて、
それらが横にずれることを止め、
それらの意味を固定する(ジジェク)。
”なにが主人のシニフィアンを構成するのかといえば、
《語りの残りの部分、一連の知識やコード、
信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)。
この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、
正確な意味を持たないことによって、
《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、
ある特定な状況に付随する独特の解釈を、
ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)
たとえば、certainty, the good, risk, growth, globalisation, 
multiculturalism, sustainability, responsibility, rationality等々が
”master signifiers“である。

この役割を担うには、「正義」JUSTICEは、
既に過剰な意味が付加されてしまっているということだろう。

以下はプラトン起源だと思われるロールズの『正義論』への
ジャン=ピエール・デュピ(日本では震災後『ツナミの小形而上学』にて名が知れた)
の批判を援用しつつのジジェクの文章である。


ヒステリー患者にとって一番の問題は、自分が何者であるか(自分の真の欲望)と、他人は自分をどう見て、自分の何を欲望しているのかを、いかに区別するかである。このことはわれわれをラカンのもうひとつの公式、「人間の欲望は他者の欲望である」へと導く。ラカンにとって、人間の欲望の根本的な袋小路は、それが、主体に属しているという意味でも対象に属しているという意味でも、他者の欲望だということである。人間の欲望は他者の欲望であり、他者から欲望されたいという欲望であり、何よりも他者が欲望しているものへの欲望である。アウグスティヌスがよく承知していたように、羨望と怨恨とが人間の欲望の本質的構成要素である。ラカンがしばしば引用していた『告白』の一節を思い出してみよう。アウグスティヌスはそこで、母親の乳房を吸っている弟に嫉妬している幼児を描いている。

 私自身、幼児が、まだ口もきけないのに、嫉妬しているのを見て、知っています。
 青い顔をして、きつい目つきで乳兄弟を睨みつけていました。[『告白』第一巻第七章]

ジャン=ピエール・デュピはこの洞察にもとづいて、ジョン・ローズの正義論に対する納得のいく批判を展開している。ロールズ的な正しい社会のモデルにおいては、不平等は、社会階級の底辺にいる人びとにとっても利益になりさえすれば、また、その不平等が相続した階層にはもとづいておらず、偶然的で重要でないとみなされる自然な不平等にもとづいている限り、許される。ロールズが見落としているのは、そうした社会が必ずや怨恨の爆発の諸条件を生み出すだろうということである。そうした社会では、私の低い地位はまったく正当なものであることを私は知っているだろうし、自分の失敗を社会的不正のせいにすることはできないだろう。

 ロールズが提唱するのは階層が自然な特性として合法化されるような恐ろしい社会モデルである。そこには、あるスロヴェニアの農夫の物語に含まれた単純な教訓が欠けている。その農夫は善良な魔女からこう言われる。「なんでも望みを叶えてやろう。でも言っておくが、お前の隣人には同じことを二倍叶えてやるぞ」。農夫は一瞬考えてから、悪賢そうな微笑を浮かべ、魔女に言う。「おれの眼をひとつ取ってくれ」。今日の保守主義者たちですら、ロールズの正義の概念を支持するだろう。2005年十二月、新しく選ばれた英国保守党の党首デイヴィッド・キャメロンは、保守党を恵まれない人びとの擁護者に変えるつもりだと述べ、こう宣言した。「あらゆる政治にとっての試金石は、もてない者、すなわち社会の底辺にいる人びとに対して何ができるかということであるべきだ」。不平等が人間外の盲目的な力から生じたと考えれば、不平等を受け入れるのがずっと楽になる、と指摘したフリードリヒ・ハイエクですら、この点では正しかった。したがって、自由主義資本主義における成功あるいは失敗の「不合理性」の良い点は(市場は計り知れない運命の近代版だという古くからのモチーフを思い出そう)、そのおかげで私は自分の失敗(あるいは成功)を、「自分にふさわしくない」、偶然的なものだと見なせるということである。まさに資本主義の不正そのものが、資本主義のもっとも重要な特徴であり、これのおかげで、資本主義は大多数の人びとにとって許容できるものなのだ。(ジジェク『ラカンはこう読め!』

で、「自由」や「民主主義」、あるいは「正義」にかわる
主人のシニフィアン探さなくちゃな

チェーザレ・ボルジアを至高の君主とした
マキャベリの運(ファルトゥナfortuna)/力(ヴィルトゥVirtù)の
ヴィルトゥ(有能性:気概と正義のミックス)なんてのはどうだい?
ーー「プラトンとフロイトの野生の馬
バディウがいう”couple of courage and justice”だよな

《古人は四つの徳をおしえた。すなわち、彼らは自己把持の四つの敵をみとめていたということだ。もっともおそるべき敵は恐怖である。というのは、恐怖は行動も思想もゆがめてしまうから。それゆえ、勇気こそ徳の第一の面、もっとも尊敬される面となる。もし正義がつねに勇気の相のもとにあらわれるならば、正義はなお大きいものとなろう。》(アラン『四つの徳』

ーーというわけだ。

善とは何か? ――権力の感情を、権力への意志を、権力自身において高めるすべてのもの。
劣悪とは何か? ――弱さから由来するすべてのもの。
幸福とは何か? ――権力が生長するということの、抵抗が超克されるということの感情。
満足ではなくて、より以上の権力。総じて平和ではなくて、戦い。徳ではなくて、有能性(ルネッサンス式の徳、Virtù 道徳に拘束されない徳)。(ニーチェ『反キリスト者』)

ヴィルトゥが主人のシニフィアンだって? まさか!
ニーチェはこのあと次のように書いてんだから

弱者や出来そこないどもは徹底的に没落すべきである。これすなわち、私たちの人間愛の第一命題。そしてそのうえ彼らの徹底的没落に助力してやるべきである。

なんらかの背徳にもまして有害なものは何か? --すべての出来そこないや弱者どもへの同情を実行することーーキリスト教・・・