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2014年9月26日金曜日

「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」

昨日からツイッターで、在特会とカウンターの
「どっちもどっち」論が賑わっているな
日本の政治に無知の身で「反応的」に書くのは、
マズイに決まってんだが
たまにはやってみたくなるものだ。
ただしよい子はやらないように、と忠告しておくよ

彼の書くものの中には、二種類のテキストがある。テクストⅠは反応的(反作用的)であり、その動因となっているものは、さまざまな憤慨、恐怖、内心での反論、軽い偏執病、防衛、いさかいである。テクストⅡは能動的(作用的)であり、その動因は、快楽である。しかし、書かれ、訂正され、“文体”の虚構に順応するにつれて、テクストⅠそれ自体も能動的となっていく。そうなると、それはみずからの反応性の表皮を失い、その反応性は、わずか、ところどころに斑(ささやかな丸括弧にかこまれた斑点)としてしか残らない。(『彼自身によるロラン・バルト』)

…………

@TomoMachi: だからさ「安倍死ね」とか言っちゃ在特会と同じだってば。大多数の人の支持は得られないってば。政権を本気で変えたいなら大多数の支持を得なきゃならないでしょ。それを考えない運動なら、本気じゃない。ただのオナニーだよ。@bcxxx.

「大多数の人」ってなんだ?
まずは「何もしない人」だな

@TomoMachi「何もしない人」を批判するのではなく、そういう大多数の人々の支持を得ないと社会は変えられませんよ。 RT @royterek: 「そういうやり方では人は増えないよ」とだけ言って自分では何もしない人たちについては偽善的なものしか感じません。

嫌韓・嫌中本が売れているらしいが
それを購入する連中がマジョリティかどうかは断言しないでおこう。
だがたとえば丸善や三省堂のていたらくを
見て見ぬふりするのがマジョリティには相違ない。
嫌韓・嫌中本は売れるので、国際空港であろうと目立つところに置く」だって?

ところで教師や研究者はマジョリティだろうか

何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)

学者やケンキューシャ諸君も「大多数の人」の仲間だろうよ


フロイトの選挙投票の選好(フロイトの手紙によれば、彼の選挙区にリベラルな候補者が立候補したときの例外を除いて、通例は投票しなかった)は、それゆえ、単なる個人的な事柄ではない。それはフロイトの理論に立脚している。フロイトのリベラルな中立性の限界は、1934年に明らかになった。それは、ドルフースがオーストリアを支配して、共同体国家(職業共同体)を押しつけたときのことだ。そのときウィーンの郊外で武装した衝突が起った(とくにカール マルクス ホーフの周辺の、社会民主主義の誇りであった巨大な労働者のハウジングプロジェクトにて)。この情景は超現実主義的な様相がないわけではない。ウィーンの中心部では、有名なカフェでの生活は通常通りだった(ドルフース自身、この日常性を擁護した)、他方、一マイルそこら離れた場所では、兵士たちが労働者の区画を爆撃していた。この状況下、精神分析学連合はそのメンバーに衝突から距離をとるように指令していた。すなわち事実上はドルフースに与することであり、彼ら自身、四年後のナチの占領にいささかの貢献をしたわけだ。(ジジェク『LESS THAN NOTHIG』私訳)

フロイトだってこうだからな
「学者」という人種はこんなものさ

《学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の“偉大な”問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。》(ニーチェ『悦ばしき知』)

・排外主義にしろ戦争準備政権にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。

・でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、アベノミクスで経済の上向き期待感を与えてくれるならば、起きるかどうか不確かな戦争への傾斜の怖れなんかに気をとめるだろうか。この政策なら明日の給料がすこしでも上がって、すこしでも生活が楽になるかもしれないと思わせてくれるなら、安倍政権の欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。

・みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。甘く見てはならないとか高をくくってはならないとか、「日常」をねつ造するメディアに流されないようになんて言われても、財布の中身のほうが大切に決ってる。(社会思想史を研究しているらしい若い研究者のツイートを「翻訳」したもの→元ツイート

で、このような「 大多数の人」の支持を得るというのは、
「カウンター運動者」の振舞いを見ているかぎりはすこぶる困難さ

・「『私たちは決して許しません』と呼び掛けるのではなく、『ふざけるな、 ボケ』と叫んだほうが人は集まる」

・理路整然とした「上品な左派リベ ラル」の抗議行動は「たとえ正論でも人の心に響かない」と答え、「何言ってるんだ、バカヤ ロー」と叫ぶのが「正常な反応」だ

・しばき隊はどんどん罵倒するのが基本 方針。 僕がよく使う言葉は、『人間のクズ』『日本の恥』などですが、もっと罵倒の技術を磨かねば、 と考えています」

・「カウンター行動は、これまで上品な左派リベラルの人も試みてきました。 ところが悲しいことに、『私たちはこのような排外主義を決して許すことはできません』とい った理路整然とした口調では、 たとえ正論でも人の心に響かない」

・「公道で『朝鮮人は殺せ』『たたき出せ』と叫び続ける人々を目の前にして、冷静でいる方 がおかしい。 むしろ『何言っているんだ、バカヤロー』と叫ぶのが正常な反応ではないか。レイシストに 直接怒りをぶつけたい、 という思いの人々が新大久保に集まっています」(野間易通語録

というわけで、次のような連中がうじゃじゃ這い出てくる。

闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。(浅田彰『憂国呆談』)

さて冒頭の町山智浩氏のツイートに戻れば
マジョリティの支持を得ないと「政権」は変わらないだって?
ご尤も、なんという「正論」!


オレはもちろん反差別が差別の温床になることを知ってるさ。
そんなの誰もが知っていることだよ。
問題はそこではないのさ。
問題は、果たして差別の温床となりうる反差別運動をしないで
差別、排外主義、ヘイトスピーチを止めうるかどうかということだぜ。



「安倍死ね」がダメだったらこんなのはどうだろう?

@sosodesumus: 安倍のアホづら見るだけでは済まなくなった。虫酸の虫と吐き気だけでは済まなくなった。たいしたもんだよ、幽霊じじい共にきりきり舞いさせられているこんな幼稚なアホが首相とは!今日は災厄の日だ!!! 馬鹿とキチガイによる、ばかのための、のうたりんの政治。こんな責任を誰が分かち合うのか。(鈴木創士)

これも町山氏にはダメかね?

白状しろよ。
いつも下痢がちの安倍のケツを、いったい何人のクソバエ記者たちがペロペロと舐めてきたことか。
安倍の官房副長官時代、しきりにかれにとりいり、テレビへ大学へと請じ入れては、言いたい放題をゆるしたのはだれであったか。
田原総一朗、故筑紫哲也らではなかったか。(辺見庸

あるいは「生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね」(中上健次)なんてのはどうだい?

さて言わせてもらえば、問題は 「マジョリティ」の支持を得ることではないのだよ

@royterek .@TomoMachi あくまでデモへの参加という点ではという意味です。3・11以降の社会的抗議の高まりの中で、穏当な表現のデモはことごとく「ただのお祭り騒ぎ」などと揶揄されてきました。少なくとも直接動員という点では、ストレートな抗議の方が好まれることは官邸前抗議以来の常識です。

 湿った瞳を交わし合い頷き合って「絆」やら「寄り添う」とかいってる
共感の共同体の連中がマジョリティなんだぜ

真の敵は在特会でもネオナチの連中でもなく、
「共感の共同体」に憩い切っている連中、
《「見たくないもの」を見ない〈心の習慣〉》(丸山真男)
をもった「大多数の人」なんじゃないかい? 
あのマジョリティの大半はひそかなレイシストだったらどうだろう
もっとも、かつての岩井克人のように
ぼくは日本人は百パーセント、レイシストだと思いますよ
とまでは言わないでおくが。

この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したありその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。(酒井直樹「共感の共同体批判」

いまも進行中だからな
「協力・相互依存」の「無責任の体系」の歯車がスムーズに動いているぜ
「事を荒立てる」かわりに、
「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先」させるってことが。

数十年前、ある婦人が、ブルックリンの大きなアパートメントの中庭でゆっくりと打たれて嬲り殺しになった。窓から何が起こっているのかをはっきりと見た七十人以上の目撃者がいたのだが、ひとりも警察を呼ばなかった。どうしてそうしなかったのか? のちの取調べでの大方の言い訳は、どの目撃者もだれか他の人がすでに報告しているだろうと思い込んでいたというものだ。この事実は、道徳的な臆病とかエゴイスティックな無関心のたんなる言い訳として、道徳的に払いのけるわけにはいかない。ここでわれわれの直面していることもまた、大文字の他者の機能である。今度は、ラカンの「知っていると想定された主体」ではなく、「警察を呼ぶと想定された主体」とでも呼ぶべきものである。(私意訳)

Some decades ago, a woman was slowly beaten to death in the courtyard of a big apartment block in Brooklyn; of the more than seventy witnesses who clearly saw what was going on from their windows, not one called the police. Why not? As the later investigation established, the most prevalent excuse by far was that each witness thought someone else would surely have already reported it. This fact should not be dismissed moralistically as a mere excuse for moral cowardice and egotistic indifference: what we encounter here is also a function of the big Other—this time not as Lacan’s “subject supposed to know,” but as what one might call “the subject supposed to call the police.”(ZIZEK“LESS THAN NOTHING”)

※ 「知っていると想定された主体」については、<ラカン派の「転移」のいろいろ>を参照。


「嬲り殺し」の高みの見物と似たようなもんじゃないのか、
たとえば「在特会」やら「ネオナチ」の動きをほうっておくのは。

湿った瞳を交わし合うのみで、
誰かがネオナチをとめてくれると想定しているだけの
去勢された子羊たちが「マジョリティ」ではないか

それともこっち系かね
ネオナチや在特会は「ほんとうの問題」を提起している
とひそかに思っている類だってマジョリティかもな

彼らは、ル・ペンについて、受け入れがたい思想 を流布する者だと言いながら、「しかし...」とことばを継ぐ。こうやって、ル・ペンが「ほんとうの問題」を提起していると言外に述べようとする。そうしてそのことによってル・ペンの提起した問題を自分たちがとりあげることを可能にする。中道リベラル は、根本的には、人間の顔をしたル・ペン主義だ。(ジジェク『資本主義の論理は自由の制限を導く』2006

共感の共同体に憩っている手合いってのが、
田母神を「ほんとうの問題」を提起しているなどと言い出す
その境界線を跨ぐまでに半歩ほどしかないかもな、
いやもう越えているのかい?

「具体的に憲法を取り戻す。国軍を創設する。歴史を取り戻す。つまり東京裁判史観から脱却する。教育を再建する。このような今、国民が熱望している緊急課題、そしてもちろん領土を守る。拉致された国民を救い出す。これを具体的に実行できる国家体制をつくるということは、国民の総意なくしてはできない。その先頭に田母神俊雄閣下になっていただくということだ」(田母神氏「タブーない政治を」

いずれにせよ、正義の味方くんやら正論くんたちよ
ひとことでいうと、なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?
ってことだよ、とくに町山智浩やら彼のツイートを大量RTしている手合いというのは。

オレが役に立っているなどと自惚れるつもりはないがね
すくなくともヘイトスピーチやネオナチへの「カウンター」運動者を
微力ながらサポートしたい心持はあるな
そしてそれに反する言葉には反吐をはきかけたいね

@kdxn: 外に出られないとして、なんでツイッターでネトウヨのデマを批判したりネトウヨに攻撃されてるマイノリティをサポートしたりせずに、カウンターの論評ばっかりえんえんとやってんだよってことだよ。RT @heboya: 誰でも彼でも、ほいほい外に出れる人間だと思うなよ!

@kdxn: ひとことでいうと、なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?ってことです。「意図」がないことが問題。本当に無神経だと思う。RT @heboya: 居丈高に要求するような意図はまったくありませんでしたが、そのように感じられたのでしたら、その点申し訳ありませんでした。(野間易通)


あるいは次のようなことをことあるごとにつぶやく手合いがあまたいるんだが
(貴君らふたりにはなんの怨みもない、サンプルとして使わせてもらうだけだからな)

@ueyamakzk「意図がなくても差別だ」というのは、 まったく同じことが、左翼・リベラルについて言えます。意図として「差別に反対している」ことは、その人の言動が差別に反対していることを保証しません。

(以上の主張は、tweetやブログで何度かくり返していますが、折にふれて提示するつもりです。主観的には「差別に反対する」意図を持った人たちが、これほど露骨に差別の温床になり、あるいは差別の増幅装置にすらなっていることが、あまりに放置されています。)
@unorthodox_TW: 私が危惧するのはやはり、他の差別者が「ヘイトスピーチ」のみを殊更に非難してみせて自分の差別性の隠れ蓑にすることであり、差別の問題を語るにあたってそれはゼロどころかマイナスの影響しか及ぼさない、ということです。 @dattarakinchan

ーー「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」
ってわけでもないだろう、お二人さん
そろそろ役に立ったらどうだい?

それともただの「善良」なひとなのかい?

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)


《@kdxn: 「カウンター」は、行動であり態度のことであって、サークルやグループではないんだよね。日本中でレイシストやファシストにカウンターしてる人のほとんどは、俺の知り合いでも友達でもないし、今後も一生知り合うことがない人たち。そして俺を嫌いな人も大量にいる。これが普通でしょ。》(「議論しないこと」と「ほっとく」能力


繰り返せば、いま問われるべきは、
「大多数の人の支持を得」ることではないのさ
たとえばマスコミの記者だって、
「安倍のケツを、ペロペロと舐めてる」手合いがマジョリティなんだから


「行動「であり「態度」ーー、それが「大多数の人」の思考の牢獄の座標軸を
わずかでも揺り動かす可能性をもつ。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号

真の敵はこのソフトな閉塞の奈落の底へと吸引する
「共感の共同体」の不可視の牢獄なのでではないか。

カウンターの動きにおける「おみこしの熱狂気質」の傾斜に十分に心を配りつつ
ムラ社会の無責任性、ヒットラーが羨望したといわれる会社主義corporatism
すなわちいつのまにかそうなる「なあなあ主義」に抵抗しなくちゃな

《その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。》(中井久夫

行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収)

《根源的悪とは、最も極端な場合、規範を乱暴に破ることではなく、パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々:引用者)から規範に服従することなのである。間違った理由から正しいことを行うこと、自分の利益になるから法に従うということは、たんに法を侵犯するよりもはるかに悪いことなのだ。》(同ジジェクーーデモの猥雑な補充物としての「享楽」


根源的悪とは、パトローギッシュな理由から、「安倍死ね」という罵倒を、社会的規範に反するとして批判することだ、と言っておこう。



…………

※追記:ははあ、町山氏だけでなく「リベラル」なおっちゃんがぞくぞく湧いている。


◆小田嶋隆氏と野間易通氏(2014.9.26 4.30PM前後のツイート)

@tako_ashi: 「行動もしてないヤツが文句言うなよ」てなことを言って、行動に加わってくれるかもしれない人間を敵にまわすことで、あの人たちはいったい何を達成したいのだろうか。永遠に「行動する勇気を持った少数者であるオレ」であり続けたいということなのか?
@kdxn: 「反ヘイト程度のことでいちいち誰かの運動に "加わ" らずに自分でやる人が増える事態」ですかね。客商売じゃないので。RT @tako_ashi: 行動に加わってくれるかもしれない人間を敵にまわすことで、あの人たちはいったい何を達成したいのだろうか。

@kdxn: こういうこと言う人って必ず最初の段階で大きな間違いをおかしています。RT @tako_ashi: 行動しないマジョリティーを軽蔑→主張に共通する部分があっても路線の異なるメンバーを排除→セクト化→カルト化→テロ化 まあ、一本道ですよ。

@kdxn: その「大きな間違い」とは、「行動しないマジョリティーを軽蔑」の部分で、ここは正しくは「行動しないでトンチンカンな論評ばかりやりたがるマジョリティーを軽蔑」です。単に行動しないだけの人は単に誘われたりするだけです。@tako_ashi

@kdxn: さらにもうひとつの大きな間違いは「主張に共通する部分があっても路線の異なるメンバーを排除」ってところで、そもそも排除する主体も枠組みもないのに、何から排除されるというのか。あなたたちは単に反批判されているにすぎない。@tako_ashi

@kdxn: 同じ組織の「メンバー」でもないアカの他人に単にネット上で反批判された程度のことで「セクト化→カルト化→テロ化」とか陳腐極まりないこと書くのやめてほしいです。もう飽きた。それとも「メンバー」にならないと何もできないの? @tako_ashi

ーーさあ、貴殿たちも、よーく考えてみよう 、
どちらがわれわれの社会の「悪」なのか

町山氏も小田嶋氏も相対的にいえばマジョリティに好まれている書き手なのだろう。

深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えている(……)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(ジジェク

ーーこんな書き手というべきかどうかを判断するほどには、わたくしは彼らのことを知らないが。


※参照:寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか