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2014年9月5日金曜日

悪達者な芸術家気取りとブラボー女

彼らは、芸術作品に関することになると、真の芸術家以上に高揚する、というのも、彼らにとって、その高揚は、深い究明へのつらい労苦を対象とする高揚ではなく、外部にひろがり、彼らの会話に熱をあたえ、彼らの顔面を紅潮させるものだからである。そんな彼らは、自分たちが愛する作品の演奏がおわると、「ブラヴォー、ブラヴォー」と声をつぶすほどわめきながら、一役はたしたような気になる。しかしそれらの意志表示も、彼らの愛の本性をあきらかにすることを彼らにせまるものではない、彼らは自分たちの愛の本性を知らない。しかしながら、その愛、正しく役立つルートを通りえなかったその愛は、彼らのもっとも平静な会話にさえも逆流して、話が芸術のことになると、彼らに大げさなジェスチュアをさせ、しかめ顔をさせ、かぶりをふらせるのだ。(プルースト「見出された時」)

――なあ、きみ!
この罠にだけは嵌るなよ
まさかいい気になっているとは思わないが
ときにあらわれる猫撫声はきくに堪えないぜ
あの女は至高の「ホモ・センチメンタリス」だぜ
もっともああいった女が文芸を支えているには相違ないがね
悪達者な文体はゆるしてやってもよいが
音と沈黙の「地」と「図」をききわける才能は
まちがいなくあるようだから

ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。(『不滅』)

まだ次のレベルにまでは行っていないけどさ
(ほんとに行ってないのだろうかね、あれ)
ツイッターの観衆に小粒の笑劇の見世物やってるわけじゃないだろうな


賞讃。 ――君を賞讃しようとしていることが君に分かっている人が、ここにいる。君は唇をかむ。胸が締めつけられる。ああ、その聖杯が通り過ぎてくれればよい! しかし、それは通り過ぎない! やって来た。では、讃辞を述べる者の媚びた恥知らずを飲もうではないか。彼の讃辞の核心に対する嫌悪と深い軽蔑とを押えよう。感謝の喜びの皺を顔中に寄せよう!  ――彼はたしかにわれわれを喜ばせようとしたのだ! しかし今、それが起こってしまった後では、彼が自分を非常にすぐれていると感じているのがわれわれには分かる。彼はわれわれに勝利を収めた。 ……(ニーチェ『曙光』 273番)

讃辞を述べる者の媚びた恥知らずを飲む手際に
当初は感心したんだが
敵は手強い不感症だからな
いまだ「不滅!」とか叫んでいるが
そのうち「永遠!」とか言い出すぜ

オレは以前のブログあの女にからまれてやめたんだよ
ブログ消したらわたしのコメントが消えてしまったなんて叫ぶんだぜ
おどろくべき媚びた恥知らずの讃辞さ
これはどうやっても逃げ出さなくちゃと思い、
ツイッターの前アカウントも削除したんだがね
そうしたら片言隻語の痕跡からわざわざ京都にまで旅行して
オレのさる女がらみのトラウマ暴くんだよ
もう二十年まえの「悪」だけどさ
あれにはまいったぜ
このブログもわかるひとにはわかるように言及されてさ
さんざん貶したつもりなのに
「愛しています!」なんて叫ぶんだよな
オレの程度の文章書いててもこれなんだから
「文芸」、とくに「詩」がらみの投稿はやめにしようと思ったな

 …………

はじめに

「もし私が書かなかったならば私はとめどもなく憂鬱になってしまっていただろう」とドイツの作家トーマス・マンは晩年に語っている。そして、彼は午前中、きっかり正午まで書斎にこもって人を寄せつけなかった。創作の合間にピアノをひいて、その音だけが扉の外に漏れてきたから、娘のエリカ・マンは、お父さんの音楽の時間だとずっと思っていたという。

フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、一八九四年、彼が精神病的とさえ憶測される二年間を通過した後、生涯、朝四時に独り起きだしてコーヒーを沸かし、八時まで、現在「カイエ」と称される膨大なノートを執筆した。詩作も、この暁の純粋で孤独な時間になされた。

(……)


Ⅰ 創作への招待

創作の過程の最初は甘美ないざないである。創作者への道もまた、多くは甘美ないざないである。創作者への道もまた、多くは甘美ないざないである。それは、分裂病のごく初期にあるような、多くは対象の明解でない苦悩から脱出するためのいざないであることもあり、それゆえに、このいざないは、多く思春期にその最初の囁きを聞くのである。

多くの作家、詩人の思春期の作品が、後から見れば模倣あるいは幼稚でさえあるのに、周囲が認め気難しい大家さえも激賞するのはこの甘美ないざないをその初期の作品に感得するからではないかと私は疑っている。思いつく例はボール・ヴァレリーの最初期詩編あるいはジッドの「アンドレ・ワルテルの手記」である。このいざないがまだ訪れなかった例はリルケが初期に新聞に書きまくっていた悪達者の詩である。リルケはその後に一連の体験によってこのいざないを感じて再出発しえた希有な詩人である。そうでない多くの作家は一種の芸能人であって、病跡学の対象になりえないほど幸福であるということもできる。芸能人に苦悩がないとはいわないが、おそらくそれは別種の苦悩である。多少の類似性はあるかもしれないが。

さらに多くの人は、この一時期にかいまみた幸福な地平を終生記憶にとどめていて、己も詩人でありえたのだという幻想を頭の隅に残して生涯を終える。


2 渇えた不毛

なぜなら、この幸福ないざないは、白紙に直面して己に没入し、己に問い、己に譲る時、たちまち激しい無力感に転じて、人は己の無力、不毛、才の乏しさに直面する。かいまみれらた幸福な地平はおおむね雲散霧消する。彼は自己の全経験を投入して、この危機を乗り越えようとする。それは燃料が尽きて船体を汽缶に投入しながら前進を続ける蒸気船に似ている。創作がこの段階に進んだ時、もはや新しい体験の素朴な流入は停止し、人は、それまでの内的資産のみを以って事に当たらなければならないこと、たとえば試験場に臨んで蔵書のすべてを持ち込めないことに似ている。

神秘家は最初の召命体験の後「渇いた不毛」ともいうべき「アリディティaridity」を通過しなければならないとされる。神がみえなくなる砂漠的不毛の時期である。創作の道を選んだ者も、この砂漠的不毛の危機を通過しなければならないのがほとんど必然である。若きマラルメのように、この時期を「死んでいた」と実感する作家もありうる。

この時期、彼が呼び出す体験には次第に招かれざる、暗く、陰うつな、言語以前の、あるいは深く抑圧され、さらにあhそれまでは解離されていたものが混じってくる。そして、言語はなお断片的であり、それ以上に、語の、句の、化学でいう意味でのフリー・ラディカル(自由基)が乱舞するいっぽう、表面的に打って出ると(つまり書こうとすると)「これはほんものではない」という感覚に圧倒される。

作家はなお前進していると思いつづけている。この前進感覚、そしていうにいわれぬ「一本の紅い導きの糸」から手を放さないことは死活的重要性を持つ。しかし、前進は同時に退行でもある。

精神分析家エルンスト・クリスは「自我に奉仕する退行」と「エスに奉仕する退行」とを区別したが、それはきれいごとと私は思う。その区別は実践においてはさほど明確ではない。具体的には、もっとも危険なのは広義の権力欲である。これをもっとも警戒して「野心を完全に軽蔑すること」と明言しているのはポーである。もし、名声を、たとえ死後の名声であっても、求めるあんらば、すべては空しくなるだけでなく、精神病の危機が待ち構えている(「権力なくして妄想なし」とは私の定式である).

創作の全過程は精神分裂病(統合失調症)の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。これらにおいても権力欲あるいはキリスト教に言う傲慢(ヒュプリス)は最大の陥穽である。逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない。それは、精神病患者の予後の指標の重要な一つがその友人の数、端的には来る年賀状の枚数であることと似た事態である。

もう一つの危険は、創作によって「人間であること」「人間であるという病い」「人間の条件」からの治癒を求めることである。これは、神秘的指向性のある場合に顕著であるが、そうでなくても、人間に内在する指向性であるかもしれず、その現れとしての「不死」の希求はいかなる文化にも見られる。これが権力欲と結びつくときの危険がもっとも高い。(中井久夫「創造と癒し序説」)