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2014年9月24日水曜日

鳥のいのちは取らないでください

・さあてツイッターもう眺めるだけにしようかしら、アタシ転移されやすいタチなのね、まえに一人三役やって、その中心人物の女性にあのシブイS.Sさんまで転移しちゃったのよ

・《たぶんそうかも。伯父さんと称する人の写真はバーネット・ニューマンだったし、彼女の元恋人も面白かった。というか、もしかしたらあの三人は、「ひとりの男」だった可能性もあると思っているのですよ…。たぶん私の妄想は間違っているだけじゃなく、本心じゃないですが》ーーて具合。

・あの演技はもう四年まえぐらいになるけど、アタシの至高のツイッタードラマよ、サド女にマゾ伯父、フェティシストの元恋人

――とツイッターでつぶやいたら、エアリプされたわ、アタシをフォローもしてないのに。それともたまたまの偶然の「事態」かしら?

・腸捻転でも起こすのでもない限り転移というのは当たり前だが全部こちら側の不手際と無知とそれから…のせいであって…。それからの後は転移の対象が実は存在しないなんてことになればじつに微笑ましい事態を招来しかねない恥ずかしさで一杯である。まあ蓮見さんなら事態と言うのだろうがそんな大仰な…

・だがよくよく考えれば転移の対象が実在していようといまいとこれは質的には何の違いもないのであってこう言った端からそう述べた人間の所在のない他愛無なさがぼとぼとと涎のように垂れ落ちて誰に恨みを抱くともなくただぼんやりしていればいいものを何とかしようなんて考えると碌な事はないのである。


アタシ、このS.S.さん、ツイッター眺めていて、もっとも「美しい」ツイートする人、――その中の一人なんてものじゃなくて、断然一番だとーーそう思っている人なのよね。だからとってもウレシイわ、エアリプされて。

もう何年も前――少なくとも震災前――のツイートだけれど、今でも頭に焼き付いているわ。

・今日病院に行ったら、病院が夏だった。蝉の死骸が待合室を埋め尽くしていて、水着姿の娘が中庭の噴水で白目をむいて溺れていた。麗しいデスタンス。私は距離をとってはスキップし、半分死にかけで夏を満喫した。外に出ると通りには人っ子一人おらず、豆腐屋の屋台が火を吹いて燃えていた。もうすぐ夏だ

・いや病院の中庭には噴水なんかなかったし、中庭すらなかった。ただハクチ娘が待合室の床に転がっていたし、医者はずっと緑色の咳をしていたし、俺は待たされてうんざりしてただけ。隣に坐っていたやくざ風の男が汗臭かったので雀が一羽空から落っこちた。レントゲンから骸骨が笑った。よお! 夏なのねし、俺は待たされてうんざりしてただけ。隣に坐っていたやくざ風の男が汗臭かったので雀が一羽空から落っこちた。レントゲンから骸骨が笑った。よお! 夏なのね

・最近河で洗濯していなかったおじいさんとおばあさんが病院にいた。桃どうですかって俺が聞くと、烈火のごとく怒って自分の首に注射針を突き立ててた。へっ、ご苦労なこった、いいじゃない、スイカ食ってるんじゃないし、おまえは井戸にお尻を落としてきたんだから、さっさとカルテに記入しな! 夏よ。

・「夏がもう行っちまう。夏が終ったら、俺たちはどこにいればいいんだ?」とドアーズのジム・モリソンは歌っていた。太陽に別れを惜しんだことなどないのに。「目をかけてやった記憶もないのに、庭に来て坐っているものがある。『夏だな』」と土方巽は言っていた。(2010.8.24)

ここに吉田一穂がいるのは、まずは当然なのだけれど、知らないひとのために引用しておけば、これね



あゝ麗はしい距離(デスタンス)、
常に遠のいてゆく風景…… ・
悲しみの彼方、母への、 ・
捜り打つ夜半の最弱音(ピアニツシモ)。

ーー吉田一穂「海の聖母」(大正15)所収


デスタンスがデスダンスでもあるのにまずは驚いてしまったわ。

それと上のツイートにある夏が過ぎ去っていく感覚というのは、おしっこもらしちゃうくらい、感激しちゃったわ

まだ小学校の二、三年生のときの、晩夏の午後、
蝉時雨のなか水撒きしたあとの、土の香りにふと襲われ、
家の奥の薄暗がりにいる母の顔が浮かびあがったりとか、

ーー「精神分裂病」と診断されてほぼ寝込んでいたのだけれど
ときおり突然家から消えてなくなっちゃうのよね、ひとりで起き出して

これはアタシの原点のひとつみたいなもんだから、
ひどく苦しんだわ、あの不安には。

子どものころよく座敷の柱におでこをくっつけて泣いた
外出している母がもう帰ってこないのではないかと思って
(……)
そのときの不安はおとなになってからも
からだのどこか奥深いところに残っていてぼくを苦しめた
だがずっとあとになって母が永遠に帰ってこなくなったとき
もう涙は出なかった
(谷川俊太郎「なみだうた」より 『モーツァルトを聴く人』)


それに、《いや病院の中庭には噴水なんかなかったし、中庭すらなかった。ただハクチ娘が待合室の床に転がっていたし、医者はずっと緑色の咳をしていた》から、埴谷雄高の『死霊』のなかの精神病院の描写が想い起こされたり、また、《蝉の死骸が待合室を埋め尽くしていて》から吉岡実の詩のいくつかも連想させられてね。

《夏草の茂る林のなかの大きな木の幹の陰で、なやましくも脱皮する少女、草むらに寝そべり、幼い陰茎に蝉をとまらせ恍惚としている少年》(吉岡実)とか、そうねえ、これとか

生徒|吉岡実

木造の古い小学校の便所の暗がりで
女生徒は飛びあがりつつ小水をするんだ
もし覗く者がいるなら それは虎の仮面をかぶった神
男生徒は夏の校庭を影を曳きながら 歩きまわる
半ズボンの間から 回虫を垂らしつつ 永遠に

そしてふたたび一年後にはこのツイート。

もう夏が終る。夏が逝ってしまう。記憶喪失が消える。人気のない荒んだ浜辺。打ち上げられた穴だらけの流木。あちこちで踏み潰された蝉の抜け殻。蝉は瀕死のまま、瀕死の未来の痙攣に向かってまだ鳴きやまない。古木の陰で少女が服を脱ぎ捨てる。小さな蜘蛛が上から糸をたらし空中で交尾のふりをする。(2011.8.19)

《私は板のささくれた面に/クレヨンで/兎の絵を描く/ついでに(女陰)も/今朝早く水田から上ってくる/女を見た/私は美しい少年へと/身の丈が伸びる/なまなましい蛇の抜け殻/……》(吉岡実「故園追憶」)

最近のものでは,瀧口修造の『絶対の接吻』だっているような気がするし。くどくなるから瀧口は敢えて引用しないけど。

昇ってゆくあの渦巻き、あの運命、深紅のカーテンのあの襞、雨にむせ返るあの土埃の臭い、溶けてゆくきな臭いあの宵の気配、あの真珠の涙、あの螺旋、遠くまでずり落ちる記憶の中のあの消失点、あの鉄のモテット、あの午後二時、それらが首を洗うごとく、撫でるように、切断するように彼に誘いかける…(2014.9.8)

それにこんな俳句だってたまらなく好き、《夕立やモヒカン濡れてワカメ酒》 2011.8.9

いまでは不感症にひとばかりが多いから、なにも感じないのかもしれないけど。まずはなによりも、夏のひとなのよ、そして逝く夏を惜しむひと。そして丘の上のひと。繰り返されるその言葉にやっぱり注目しなくちゃ。

丘の上で口笛が聞こえる 君の髪が風にからまる 生まれたばかりの蛇のように 水を湛える泉は遠い マンドリンを抱えて通り過ぎる 地獄の火の門を 名前も知らない君の窓辺に辿り着くまで・・・丘は見えるけど、俺が辿り着くことはないだろう なだらかな坂道、マンドリンの調べ キンポウゲの毒花が咲いている 荒野の傾いた木の十字架 君の窓辺へ、スイカズラの咲く君の窓辺へ・・・(無名の中世イタリア吟遊詩人の歌)
ランボーは恐らく極度の苛立ちと共に夜通し歩き回り最後に小高い丘の上までやって来て腰を下ろす。彼は黎明に白く光り始めた町を一望の元に見渡す。動くものはない。滝の水しぶきから何かが、つまり昨日のすべての映像を消し去る朝の女神が彷徨い出る。彼は彼女のヴェールを脱がす。目覚めると正午だ。

上の一つ目は無名吟遊詩人のものとあるけれど、ここある「スイカズラ」も頻出するわ……

次の文はツイートではなく、大野一雄への追悼文。

何もない明るい丘に、葉っぱを落とした一本の古木が立っていた。ここからは見えない丘のむこうからかすかな口笛が聞こえる。時おりはしばみの実をくわえた大きな鳥が裸の枝にとまりにやってくる。

手が、幾度となく、鳥のように宙で小さな弧を描いているだけだ。青空。眼を閉 じて、何も言うまいとする大野一雄。何も言うことがないのだ。アルヘンチーナの幽霊はもう跡かたもない。アルトーは、ヴァン・ゴッホの絵画のなかには幻影 はない、ヴィジョンもなければ幻覚もない、あるのは午後二時の太陽の灼熱の真実だけだと言っていたが、絵の対象と、画家だけではなくわれわれ自身をも隔て たり近づけたりするものについて言えば、そこには何もなかったのだということだけを銘記しておこう。


でもね、こんなに惚れこんでいても、「転移」されると気が重くなるタチなのよ、アタシ。虚構が見破られる気がするからかしら。ましてやアカウント削除したあとも、サド女の「麗乃」をこんなふうに探し求められちゃ。

@yano27 「小鳥の命をとらないで」のReinoさんなのですか。そうであればいいのですけど・・・ (2010.7.29)


――ゼーンゼン、ひとちがいよ

八千矛神(やちほこのかみ)よ、この私はなよなよした草のようにか弱い女性ですから、私の心は浦や洲にいる鳥と同じです。いまは自分の思うままにふるまっている鳥ですが、のちにはあなたの思うままになる鳥なのですから、鳥のいのちは取らないでください……

いまは朝日がさしてきた青山ですが、やがて夕日が沈んだら、まっ暗な夜が来ましょう。あなたは朝日のように晴れやかに笑っていらっしゃり、さらした梶の皮の綱のような白い腕、泡雪のような若やかな胸を抱きかかえ、玉のような手と手とをおたがいに枕とし、股を長々と伸ばして寝ましょうに、そうやみくもに恋いこがれなさるものではありません……(『古事記』現代語訳  高橋睦郎『読みなおし日本文学史-歌の漂泊-』)