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2014年10月22日水曜日

攻撃欲動はタナトスではなくエロスである

攻撃欲動はタナトスではなくエロスであるという仮説を立ててみよう。

まずはタナトス(死の欲動)をめぐって記述する。たとえば、ジジェクは次のように言っている、

フロイトが死の欲動の考え方にて目指していたものーーより正確にいえば、フロイト自身が彼の発見の真の重大性に盲目で気づいていなかった核心的な側面――は、ヘーゲルの「否定性」の非-弁証的な核、止揚や理想化のどんな動きもなしに反復される純粋な欲動である。(私訳)

what Freud was aiming at with his notion of death drive—more precisely, the key dimension of this notion to which Freud himself was blind, unaware of the full significance of his discovery—is the “non‐dialectical” core of Hegelian negativity, the pure drive to repeat without any movement of sublation or idealization.(Zizek“LESS THAN NOTHING”2012)
欲動は心理学とはまるで関係がない。死の欲動(そして欲動とは、まさに死の欲動である)は、死や破壊にやっきになる心的な(あるいは生物学的な)ものではない、ーーラカンがくり返し強調しているように、死の欲動は存在論的な概念である。そして死の欲動の正しく存在論的な側面は、考えるのにひどく困難なものだ。フロイトは、Trieb(欲動)を、生物学と心理学のあいだ、あるいは自然と文化のあいだに位置する限定された概念として定義した。――心的表象と通してのみ知られる自然な力として。しかし、われわれはここからいっそう歩みを進め、フロイトをもっとラディカルに読まねばならない。

The drive has nothing whatsoever to do with psychology: the death drive (and the drive as such is the death drive) is not a psychic (or biological) striving for death and destruction—as Lacan emphasizes repeatedly, the death drive is an ontological concept, and it is this properly ontological dimension of the death drive which is so difficult to think. Freud defined Trieb (drive) as a limit‐concept situated between biology and psychology, or nature and culture—a natural force known only through its psychic representatives. But we should take a step further here and read Freud more radically(同上)

これはドゥルーズがすでに『マゾッホとサド』や『差異と反復』で言っていることだ。

まず『差異と反復』から手元にある英訳のまま抜き出そう。

Eros and Thanatos are distinguished in that Eros must be repeated, can be lived only through repetition, whereas Thanatos (as transcendental principle) is that which gives repetition to Eros, that which submits Eros to repetition. Only such a point of view is capable of advancing us in the obscure problems of the origin of repression, its nature, its causes and the exact terms on which it bears. For when Freud shows -beyond repression 'properly speaking', which bears upon representations -the necessity of supposing a primary repression which concerns first and foremost pure presentations, or the manner in which the drives are necessarily lived, we believe that he comes closest to a positive internal principle of repetition. (Gilles Deleuze“Difference and Repetition” Translated by PauiPatton)

※上の英訳における“transcendental principle”は仏原文では“ principe transcendantal”になっていることに注意しておこう。

この『差異と反復』の一年前に上梓された『マゾッホとサド』にはこうある。

快感原則はすべてに支配権をふるいはするが、それを統禦するものではないというべきなのだ。快感原則に例外はないが、その原則には還元しがたい残滓が存在するのである。快感原則に逆らうものは何もないが、その原則の外部にあるもの、異質な何ものかーーつまり彼岸……が存在するということなのである。(……)

まず、一領域を統轄するものを人は原則と呼ぶ。その場合は、原則とは経験的な原理または法である。かくして快感原則は、<エス>にあって心的生活を統轄する(例外なしに)。だが、その領域を原則に従属せしめるものが何かを知ることは、まったく別の問題なのである。それとは違った別の原理、次元が一段上の原則が必要であり、それが、経験的原理へと領域が従属する必然性を説明することになるのだ。超越的とはこの別の原理のことである。快感は、心的生活を統轄する限りにおいて原則なのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)

 ーー今仏原文を探し出せないでいるのだが、『差異と反復』においてタナトスが“transcendental”とされ、蓮實重彦訳の『マゾッホとサド』では、「超越的」とある。これはおそらく誤訳ではないか。

「超越論的」とは、あらゆる(可能な)経験の条件に関わるということである。付言すれば、 内在的な思考を貫こうとするドゥルーズ哲学の文脈においてはとりわけ、「超越論的」 (transcendantal)と「超越的」(transcendent)の二つの形容詞を混同しないことは重要である。後者が、 経験しうるものの彼方にあるという意味でまさに超越的なのに対し、 前者は、 経験を根底か ら規定しつつも経験と同じレベルに位置するという意味で、内在的とみなしうるものである。(箭内 匡 『映像について何を語るか -ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察- 』)

だが誤訳云々はいまはどうでもよろしい。ここではタナトスは超越論的であるものとして話をすすめる。

冒頭に掲げたジジェクの「死の欲動」の捉え方とドゥルーズのそれとの同一性は、手早く言えば、次の文に現われる。

エロスとタナトスは二つの相反する欲動ではない。それらは競合し、(エロス化されたマゾヒズムとしての)二つの力を結合させるものではない。ただ一つの欲動、リビドーがあるだけであり、そのリピドーはただひたすら享楽を追い求める。(ドゥルーズ『差異と反復』英訳からの私訳――「権力への意志Wille zur Macht」と「死の欲動Thanatos」より)

eros and thanatos are not two opposite drives that compete and combine their forces (as in eroticized masochism); there is only one drive, libido, striving for enjoyment(Jouissance)

ただしジジェクは《死の欲動の正しく存在論的な側面》とし、ドゥルーズはタナトスは《超越論的》と言う。

ここで「哲学」にはまったく詳しくないわたくしは、「超越論的」をめぐって長年考えてきた代表的な日本の思想家柄谷行人にお出まし願うことにする。


ハイデガーは経験的なレベルと超越論的なレベルのカント的区別を、存在的と存在論的の区別として言い換え、まるで彼がそれを初めて見出したかのように強調する。また、経験的自我(存在者)に対して、無=存在であるところの超越論的自我を強調する。だが、彼は「疑う私」、共同体と共同体の「間」にあるような外部的実存については語らない。ハイデガーのいう現存在は同時に本来的に共同存在 ―――彼にとっては民族を意味する ―――である。ここから、疑う存在=単独的な実存は出てくる余地がない。

あえて存在論のタームで語るならば、われわれはデカルトの懐疑から次のように存在論を見出すべきである。コギト(=我疑う)は、システム間の「差異」の意識であり、スムとは、そうしたシステムの間に「在る」ことである。哲学によって隠蔽されるのは、ハイデガーがいうような存在者と存在の差異ではなくて、そのような超越論的な「差異」あるいは「間」なのであり、ハイデガー自身がそれを隠蔽したのである。ハイデガーは、カントの超越論的( transcendental)な批判を、深みに向かう垂直的な方向において理解する。しかし、それは同時に、いわば横断的( tramsversal)な方向において見られねばならない。そして、私はそれを〈 transcritique〉と呼ぶのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P150)

というわけで、「存在論的」とは「超越論的」なものと、とりあえずしておこう。

今思えばカントの超越論的な次元に辿りついたとき、私は哲学とは何たるかを間違いなく初歩的なレヴェルでしか理解してなかったのだ、と思いました。つまり、私は哲学が一種の誇大妄想的な企て(megalomaniac enterprise) ――ほら、「世界の基本的な構造を理解しましょう」というたぐいのものです――ではないという重要なポイントを理解したとき、哲学はそんなものではないとわかったのです。(……)

哲学は誇大妄想的なものではないと私が知ったのは、愚直(naive)な科学者から「われわれが合理的な仮説にもとづいた厳然たる現実を扱っているのに対して、君たち哲学者は単にあらゆる事物の構造を夢見ているだけではないのかね」というありがちな反論を受けたときでした。そのとき、哲学はある意味で科学より批判的で、より用心深くさえあるのだということに気づきました。哲学はより初歩的な疑問さえ投げかけます。例えば、科学者がある問いにアプローチする際、哲学のポイントは、「万物の構造は何か」ではなく、「その問いを定式化するために科学者がすでに前提としなければならない概念とは何なのか」ということです。(スラヴォイ・ジジェク『ジジェク自身によるジジェク』私訳)

ここでもう一度、柄谷行人から引こう。

超越論的とは、無としての働き(存在)を見いだすという意味で、存在論的(ハイデガー)である。同時に、それは「意識されない」構造を見るという意味では、精神分析的あるいは構造主義的である。(『トランスクリティーク』P59)

さて「超越論的」談義はこのくらいにして、死の欲動に戻るとすれば、ドゥルーズとジジェクの解釈によるタナトスとは、実は「死なない」欲動、永遠の反復運動(永劫回帰)である。

同一的な規則を前方に想定するような行為は「想起」(キルケゴール)にほかならないが、そうでない行為、規則そのものを創りあげてしまうような行為は、「反復」または「永劫回帰」とよばれる。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

死の欲動を攻撃欲動やら破壊欲動と誤認してはならない。

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

だが、もしそうであるなら、つまり死の欲動が攻撃欲動でないなら、攻撃欲動はエロスなのだろうか。もっともラカンはセミネールⅦでは、次のように言っていることをここで挿入しておこう。

欲動そのものは、そして欲動そのものとは破壊欲動なのだが、そのかぎりにおいて、非生命体〔無機物、inanimé〕への回帰への傾向の彼岸になくてはならない。(Lacan S7)

死への回帰への傾向の〈彼岸〉といっている。すなわち欲動は死への回帰ではない、と言っているとしてよいだろう。

だがここではこのラカンの言葉に囚われずに、再度素朴な問いを発してみよう。

攻撃欲動が、《快感原則はすべてに支配権をふるいはするが、それを統禦するものではないというべきなのだ。快感原則に例外はないが、その原則には還元しがたい残滓》であるタナトスでないなら、攻撃欲動はエロスでありえることはないか、と。
バタイユのエロスと暴力をめぐる論を想起しないでもないが、ここではもっと穏やかに、わが国の精神科医中井久夫を引こう。

行動化自体にもまた、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感を与える力がある。行動というものには「一にした全」という性格がある。行動の最中には矛盾や葛藤に悩む暇がない。時代小説でも、言い争いの段階では話は果てしなく行きつ戻りつするが、いったん双方の剣が抜き放たれると別のモードに移る。すべては単純明快となる。行動には、能動感はもちろん、精神統一感、自己統一感、心身統一感、自己の単一感、唯一無二感がある。さらに、逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。時代小説を読んでも、このモードの変化とそれに伴うカタルシスは理解できる。読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その限りであるが精神衛生によいのである。
行動化は集団をも統一する。二〇〇一年九月十一日のWTCへのハイジャック旅客機突入の後、米国政府が議論を尽くすだけで報復の決意を表明していなければ、アメリカの国論は乱れて手のつけようがなくなっていたかもしれない。もっとも、だからといって十月七日以後のアフガニスタンへの介入が最善であるかどうかは別問題である。副作用ばかり多くて目的を果たしたとはとうてい言えない。しかし国内政治的には国論の排他的統一が起こった。「事件の二週間以内に口走ったことは忘れてくれ」とある実業家が語っていたくらいである。すなわち、アメリカはその能動性、統一性の維持のために一時別の「モード」に移行したのである。

DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、その時かぎりであり、それも始まりのときにもっとも高く、次第に減る。戦争の高揚感は一ヶ月で消える。暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する。最初は思い余ってとか論戦に敗れてというそれなりの理由があっても、次第次第に些細な契機、ついにはいいがかりをつけてまでふるうようになる。また、同じ効果を得るために次第に大量の暴力を用いなければならなくなる。すなわち、同程度の統一感に達するための暴力量は無限に増大する。さらに、嗜癖にはこれでよいという上限がない。嗜癖は、睡眠欲や食欲・性欲と異なり、満たされれば自ずと止むという性質がなく、ますます渇きが増大する。

ちなみに、賭博も行動化への直行コースである。パチンコはイメージとも言語化とも全く無縁な領域への没入であるが、パチンコも通常の「スリル」追求型の賭博も、同じく、イメージにも言語化にも遠い。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収pp311-313)

そもそも人間の怒りや攻撃は、動物にはない不能感と無力感の表現であるとはかねてより語られてきた。

The anger and aggression that often accompany it are always expressions of impotence and helplessness that are unknown to animals. Animals have instincts, not drives. (Paul Verhaeghe”Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE”)

フロイトの破壊欲動の捉え方はここでは脇にやるとしてーー《破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志(Destruktionstrieb, Bemächtigungstrieb, Wille zur Macht)》(『マゾヒズムの経済的問題』におけるBemächtigungstrieb)--、攻撃欲動や暴力は、エロスでありうる。中井久夫やポール・ヴェルハーゲの叙述にみられるように、不能感や無力感、すなわちばらばらとなった精神を、束の間にせよ統一させるものであるだろうから。もし、ここでフロイトの叙述を活かして、エロスとは、《現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め》ようとするものであるなら、暴力は自己の統一を取り戻すものである。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能(欲動;引用者)、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳ーーフロイトの『Why War?』における愛と憎悪


こうしてベルギーのラカン派精神分析医ポール・ヴェルハーゲは次のように言うことになる。

生の欲動(エロス)は死を目指し、死の欲動(タナトス)は生を目指す。

life drive aims towards death and the death drive towards life (Paul Verhaeghe『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』ーーエロスとゆらめく閃光

エロスの欲動によって、大きなものに融合すれば、個の消滅がある。人間はだれしもそれを反復して目指すにしろ、個の消滅はすなわち個人の死である。その「死」を避けるために、融合を破壊するのがタナトスである、という解釈である。

もっともこの解釈を援用して、上に書かれた暴力=エロスによって獲得するのが自己の束の間の統一であるなら、それが個の消滅であるなどとすることはできない。ましてや、その統一を破壊するのがタナトスだとするには無理があるように思える。自我の統一をどうして破壊しなくてはならないのかーー。

ヒュームは、自己というのは多数の知覚の束だ、いわば蚊柱のようなものだ、とした。偽の自己一貫性を嫌い、むしろヒューム的な蚊柱を目指すのがタナトスとでもいうべきなのか。カントは、ヒュームによるそういう徹底的な解体の認識を拒絶して、超越論的統覚Xという、いわばどこにもないものを持ってきて、新たな統合を図ったとされるのだが。

ーーなどとほとんど無知の領域での疑念はここでは脇にやることにして、われわれの日常的・政治的視点から叙述することにする。

エロスがよりおおきなものへの統合、タナトスがその統合の破壊だとすれば、たとえば、EC統合のエロスがすすめばすすむほど、個々の国家のナショナリズムによる破壊衝動が芽ばえるという現象が観察され、これはエロスとタナトスの相反する動きだとみなすことができる。

日本の植民地政策、とくに韓国における政策が憎悪を生んだのは、エロス政策であったからである。だから激烈なタナトスが生れる。

日本の植民地政策の特徴の一つは、被支配者を支配者である日本人と同一的なものとして見ることである。それは、「日朝同祖論」のように実体的な血の同一性に向かう場合もあれば、「八紘一宇」というような精神的な同一性に向かう場合もある。このことは、イギリスやフランスの植民地政策が、それぞれ違いながらも、あくまで支配者と被支配者の区別を保存したのとは対照的である。日本の帝国主義者は、そうした解釈によって、彼らの支配を、西洋の植民地主義支配と対立しアジアを解放するものであると合理化していた。むろん、やっていることは基本的に同じである。だが、支配を愛とみなすような「同一性」のイデオロギーは、かえって、被支配者に不分明な憎悪を生み出すこと、そして、支配した者に過去を忘却させてしまうことに注意すべきである。。(柄谷行人「日本植民地主義の起源」『岩波講座近代と植民地4』月報1993.3初出『ヒュ―モアとしての唯物論』所収)

あるいはヘーゲルの「自己を他者と同一化したいという模倣への欲望」と「自己を他者と区別させることによって自己を主張したいという独自性への欲望」とは、エロスとタナトスの欲動とさえできるのではないか。

『法哲学』の中で、ヘーゲルは、人間のモノに対する欲求が、他者によって認められたいという社会的な欲望になり、それが逆にモノをのものあるいはモノの獲得の目的になってしまうことを論じた後、次のように述べている。

《欲望の社会化という]この契機は、さらに直接に、他者との平等への要求をそのうちに含む。一方で、この平等化への欲望および自己を他者と同一化したいという模倣への欲望が、他方で、それと同時に存在している、自己を他者と区別させることによって自己を主張したいという独自性への欲望が、それ自身欲望を多様化しかつそれを増殖していく事実上の源泉となるのである。》

すなわち、人間の社会的欲望には、他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と、他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望とのふたつがあるのである。(岩井克人「ヴェニスの商人の資本論」より)

こういいった言い方をしてもよい。攻撃欲動は外部へは破壊、あるいは暴力としてあらわれるだろうが、心の内部のへ向けては、ーー脳/精神の低い水準ではーー統一感を取り戻してくれる。少なくとも、そこで生じる仮初めの内面の唯一無二感は、エロスであるといいうる。


もちろん、ここに書かれた叙述は仮説であり、フロイト自身くり返し語っているように、エロスとタナトスは別々に現われるのは稀である。そしてそこでの鍵言葉は、drive fusion (Triebmischung)であり、すなわちエロスとタナトスの欲動融合である。

とすれば、攻撃欲動もエロスとタナトスの欲動融合なのだろうか。ドゥルーズやジジェクの議論ーー超越論的、あるいは存在論的な議論ーーでは、そのあたりが曖昧なようにわたくしには思えるが、それはたぶん哲学的な素養のなさからくるのだろう。

…………

※附記:至高の暴力(攻撃欲動)の発現形態、「戦争」がエロス的祝祭でありうるのはいうまでもない。

戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚感をもたらす。戦時下で人々は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたかにみえる。戦争が要求する苦痛、欠乏、不平等すら倫理性を帯びる。  これに対して、平和とは、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むきだし、犯罪と不道徳の横行する時代である。平和の時代は戦争に比べて大事件に乏しく、人生に個人の生命を越えた(みせかけの)意義づけも、「生き甲斐」も与えない。平和は「退屈」である。

なるほどこうやって比べてみれば、戦争の方が平和よりも100倍も「魅力的」に見えるだろう。個人の生命を越えた高貴な価値のために、死を賭して戦う戦士たちは崇高でうつくしい。これに反対する者は、臆病者、卑怯者と呼ばれる。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収
祭りの途中においては、通常は排撃されていることが許される――要求されさえする――のだ。祭りの時における侵犯は、まさしく、祭りに素晴らしい様相、神々しい様相を与えるものなのである。神々の中でも、ディオニュソスは、本質的に祭りに結びついている。ディオニュソスは、祭りの神、宗教的侵犯の神なのだ。ディオニュソスは、葡萄と酩酊の神として挙げられることがはなはだ多い。ディオニュソスは、陶酔の神であり、狂気を神的な本質とする神なのである。けれども、まずもって、狂気そのものが、神的な本質なのだ。神的な、すなわち、ここでは、理性の規則を拒否する本質というわけである。(バタイユ『エロスの涙』Les Larmes d'eros, Pauvert)

《われわれの疑問は、たとえば「生の肯定」、「生の蕩尽」としてカーニバル的にあらわれたものが必ずファシズムに転化するのはなぜかということだ。ニーチェやベルグソンはファシストではないといってもはじまらない。もはや純粋なカーニバルなどありえないように、純粋な「生の哲学」もありえない。それはいったん歴史的な文脈に存在するやいなや、思いもよらぬ反転や置換を強いられるのだ。本当は、「暴力的なもの」は《近代》に出現するのだといってもよい。》(柄谷行人『歴史と反復』)


ーーだが攻撃欲動が生の肯定=エロスであるなら、「生の肯定」が「暴力的なもの」であるのは、なんの不思議でもない。