このブログを検索

2014年10月24日金曜日

「関係構造」は事物の存在より重要である

私は仕事のための場をふたつもっている。ひとつはパリに、そしてもうひとつはいなかに。二ヶ所に、共通の品物はひとつもない。何ひとつとして運んだことがないからだ。それにもかかわらず、これらふたつの場所は同一性をもっている。なぜか? 用具類(用紙、ペン、机、振子時計、灰皿)の配置が同じだからである。空間の同一性を成立させるのはその構造なのだ。この私的な現象を見ただけでも十分に、構造主義というものがはっきりわかるだろう。すなわち、体系は事物の存在より重要である、ということだ。(『彼自身によるロラン・バルト』)

…………

天動説のままの阿呆鳥、あるいは「死の欲動」」にて、柄谷行人の「或る関係構造の項」をめぐる叙述を引用した。ここでもうすこし関係の構造――これはマルクスの価値形態論に起源(のひとつ)があるーーをめぐってメモしてみよう。

柄谷行人の"Revolution and Repetition"(「革命と反復」)にはこうある。おそらく日本語原文があるのだろうが、わたくしは手元に英文しかないので、まずこれを貼り付ける。

I believe that there is a repetition of history, and that it is possible to treat it scientifically. What is repeated is, to be sure, not an event but the structure, or the repetitive structure. Surprisingly, when a structure is repeated, the event often appears to be repeated as well. However, it is only the repetitive structure that can be repeated.

《私は歴史に反復があると信じている。そしてそれを科学的に扱うことが可能である。反復されるのは、たしかに、出来事ではなく、構造あるいは反復構造である。驚くべきことに、構造が反復されると、出来事も同様に反復されて、しばしば現われる。しかしながら、反復されるのは反復構造のみである。》とでも訳せる文であろう。

 ところで、柄谷行人は、90年代、システム/出来事、記録/記憶を語った、《それは、システムと出来事の違いだし、記録と記憶の違いだね》(「悪い年」を超えて 浅田彰・坂本龍一・柄谷行人による鼎談 1996-9

これは次の文脈の流れのなかの発言である。

坂本:情報と経験の違いでもある。
(……)
浅田:ドゥルーズの『差異と反復』じゃないけど、記憶というのは常に差異の反復なんで、しかしだからこそ真実なわけじゃない? 全く同じものがコピーされてくるんだったら、記録の再生だけで、そこに本当の反復はない。

とすれば、柄谷行人が反復構造の反復を主張するとき、システムの反復を言っているのだろうか、それとも出来事の反復を言っているのだろうか。通常は、「構造」と言えば前者である。だが反復構造は記録ではなく記憶であるとも考えられないものだろうか。

さあて、ドゥルーズの『差異と反復』もつまみ読みをしただけであり、最近の柄谷行人の仕事にも疎いわたくしは首を傾げて思案するふりをしてみる。

次の文はプルーストの「レミニッサンス=無意識的想起」をめぐるなかで語られ、「純粋過去」の議論に発展していくなかでのドゥルーズの「反復」である。

それら二つの現在〔古い現在と現働的な現在〕が、もろもろの実在的(レエル)なものからなる系列のなかで可変的な間隔を置いて継起するということが真実であるとしても、それら二つの現在はむしろ、別の本性をもった潜在的対象に対して共存する二つの現実的な系列を形成しているのである。しかもその別の本性をもった潜在的対象は、それはそれでまた、それら二つの現実的な系列のなかで、たえず循環し遷移するのだ(たとえ、それぞれの系列のもろもろの位置や項や関係を実現する諸人物、つまり諸主体が、それらとしては依然、時間的に区別されているにしてもである)。反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成されるのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』)

潜在的対象(対象=x)とあれば、ラカンの現実界やら、対象a、そして享楽概念を想起せざるをえない。

ラカン派にはシニフィアンの反復をめぐる議論がある。ラカンはセミネールⅩⅠで二種類の反復を語っている。アリストテレス用語のautomaton/tucheを援用しつつ、象徴界におけるシニフィアンのくり返しが、”automaton”とされ、現実界的なものに促された反復がtuche(チュケー)である(参照:二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」)。

おそらくキルケゴール=ドゥルーズの反復とは、このチュケーの審級に属するものであるだろう。そして柄谷行人の《反復されるのは、たしかに、出来事ではなく、構造あるいは反復構造である。驚くべきことに、構造が反復されると、出来事も同様に反復されて、しばしば現われる。しかしながら、反復されるのは反復構造のみである》という文における反復は、チュケーの審級の臭いが、わたくしにはぷんぷんしてくるが、ここで臆断は避けることにする。

ただ同じような反復にみえるものでも、潜在的対象(対象=x)ーーここではトラウマ的なものとしておくーーに促された反復は、シニフィアンの換喩的な連鎖による反復とは、異質なものであるには相違ない。

たとえば日本が戦前のある時期の「構造」を反復するとする。それはただシステムの反復 ”automaton”ではなく、tuche(チュケー)の反復として捉え得る。ここでは、戦後70年経っても解決されないままに居座る戦前の亡霊xによる反復という意味で言っている。《戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸条件の中で、社会的、文化的条件の一部は存続している。》(「加藤周一「今日も残る戦争責任」)

ただこの議論はいまは発展させない。いずれ? それをめぐってもうすこし詳しく書くかもしれない? ーーとだけしておく。いやいつのことになるかわからないので、ここでそれにまつわる三つの論文を提示しておこう。

1、Jacques-Alain Miller“Transference, Repetition and the Sexual Real Reading The Four Fundamental Concepts of Psychoanalysis”

2、Alenka Zupancic" When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value"

3、Ian Parker ”Identification: Signifiers, Negation and the Unary Trait in Seminar IX”


ただラカンは、セミネールⅩⅦにて、次のように言っている、《享楽はそれ自身へのシニフィアンの不十分(無能)以外のなにものでもない。Jouissance is nothing but the inadequacy of the signifier to itself》と。シニフィアンに不足しているものは、中期以降のラカン(ファルスから対象aへ、欲望から欲動へのラカン)においては、主体と対象aであるだろう(ラカンにとって主体とは無意識の主体のことである)。これはほとんどマルクスの剰余価値と同じことを言っている、《価値形態論の構造じたいが、みずからの完成を拒み、みずからに無限のくりかえしを強いることになる》(岩井克人『貨幣論』)。

もちろんラカンの剰余享楽はマルクスの剰余価値から生まれている。

マルクスの剰余価値という概念をもとにして、ラカンが剰余享楽なる概念をつくりあげたのは当然といえば当然であって、剰余享楽もまた貨幣と同じように、事物(快楽の対象)をその反対物に変え、通常はきわめて快い「正常な」性体験と見なされているものを猥褻なものに変え、(愛する人を苦しめるとか、辛い辱めに耐えるといった)ふつうは胸糞悪い行為と見なされているものを言葉では尽くせないほど魅惑的なものに変える、逆説的な力をもっている。(ジジェク『 斜めから見る』)

ここでドゥルーズがファルスと関連付けて語る《潜在的対象(対象=x)》とは実は、主体であり対象aであると修正したい誘惑にかられる。

だが、いまは関係構造の話である。

柄谷行人は、かねてより次のマルクスの文をくり返し引用している、

・《個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。》(マルクス『資本論序文』)

・《彼らは、彼らの異種の生産物をたがいに交換において価値として等置させることいよって、彼らのさまざまな労働をたがいに人間労働として等置させるのだ。彼らはこのことを意識しないが、しかしそうやっているのだ。》(『資本論』第一巻第一部第一章第四節)

これをわたくしは次のように変奏してみる、《人はあるポジションにおかれたら、いくら「善」をなそうとしても、社会的な悪に染まってしまう。彼らはこのことを意識しないが、しかしそうやっているのだ。》

◆ひとは、たとえば大学教師のポジションに置かれたら、学者村(共同体)のなかでの保身に走るようになる。これは別に学者でなくてもよい、「専門家」というものはそういうものだ。

プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

◆ひとは、生活苦のポジションに置かれたら、排外主義・レイシズムなどに無関心となる。

排外主義にしろ戦争準備政権にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。

でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、アベノミクスで経済の上向き期待感を与えてくれるならば、起きるかどうか不確かな戦争への傾斜の怖れなんかに気をとめるだろうか。この政策なら明日の給料がすこしでも上がって、すこしでも生活が楽になるかもしれないと思わせてくれるなら、安倍政権の欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。

みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。甘く見てはならないとか高をくくってはならないとか、「日常」をねつ造するメディアに流されないようになんて言われても、財布の中身のほうが大切に決ってる。(さる「社会思想史」研究者のツイート変奏

◆ひとは、病苦に襲われたら、自分以外のことはどうでもよくなる。

器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心を自分の愛の対象から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。(……)W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我への関心とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』フロイト著作集5 p117)

であるならば、ひとは、自民党総裁のポジションにおかれれば、ネオナチを擁護し、経済界の奴隷になって市場原理主義を擁護する、などと言えるかもしれない(すくなくともベルリンの壁崩壊以後は)。いやナショナリズムでさえ仮装でありうる、資本の欲動一辺倒ではないか、とさえ臆断するひともいるだろう。

安倍晋三は集団的自衛権で、この米国の真似っこをしたいのです。だから中国も韓国も関係ない。保守も愛国も関係ない。領土も防衛も関係ない。たんに経団連傘下の大企業の受注を増やしてあげて、公共事業として戦争をやりたいってだけです。だってそういう企業の献金で生き延びてきたのが自民党だもん。(資本の欲動のはてしなさ(endless)と無目的(end-less)

逆に、ひとは在野のポジションにおかれればーー、だがこれは書くのをやめにしよう。そうではなく、ここで自らのポジションを「宣言」する次元の話を附記しよう。

人が何かをすると、その人は自分を、それをした者として自覚する(そしてそう宣言する)。そしてその宣言にもとづいて、その人は新たな何かをする。主体が変容するのは、行為の瞬間ではなく、宣言の瞬間である。(ジジェク『ラカンはこう読め』p37)

〈あなた〉が反排外主義デモに参加するとする。そしてそれをツイッターで宣言する。そのとき、〈あなた〉は変容する。それは自分は反レイシズムだと自他ともに宣言することだが、ここにおける〈他者〉の、--小文字の他者ではなく大他者のーー認知が肝要である。そのとき〈あなた〉の現実そのものが変わり、〈あなた〉は違ったふうに行動するようになる。これは、ハサミ状の格差のメカニズムでもある。

もっと一般的に、池で溺れている少年、あるいはいじめられようとしている少女を目撃した場合に、見て見ぬふりをして立ち去るか、敢えて救助に向かうかの決定が紙一重となる瞬間がある。この瞬間にどちらかを選択した場合に、その後の行動は、別の選択の際にありえた場合と、それこそハサミ状に拡大してゆく。卑怯と勇気とはしばしば紙一重に接近する。私は孟子の「惻隠〔みてしのびざる〕の情」と自己保存の計算との絞め木にかけられる。一般に私は、救助に向かうのは最後までやりとおす決意とその現実的な裏付けとが私にある場合であるとしてきた。(中井久夫「一九九六年一月・神戸」『復興の道なかばで  阪神淡路大震災一年の記憶』所収)

中井久夫はこうも書いている、《半分は、ふだんの構えによって決まるが、半分は、いったん一つの構えを取ると、それを取りつづける傾向が強い》と。


さて少し前に戻って、柄谷行人のマルクス引用とそれに付されるコメントをやや長く引用する。

《ひょっとしたら誤解されるかもしれないから、一言しておこう。私は資本家や土地所有者の姿をけっしてばら色に描いていない。そしてここで問題になっているのは、経済的範疇(カテゴリー)の人格化であるかぎりでの、一定の階級関係と利害関係の担い手であるかぎりでの人間にすぎない。経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。》(『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」)

ここでマルクスがいう「経済的カテゴリー」とは、商品や貨幣のようなものではなくて、何かを商品や貨幣たらしめる価値形態を意味する。『グルントリセ』においても、マルクスは商品や貨幣というカテゴリーを扱っていた。『資本論』では、彼は、それ以前に、何かを商品や貨幣たらしめる形式に遡行しているのである。商品とは相対的価値形態におけれるもの(物、サービス、労働力など)のことであり、貨幣とは等価形態におけれるもののことである。同様に、こうしたカテゴリーの担い手である「資本家」や「労働者」は、諸個人がどこに置かれているか(相対的価値形態か等価形態か)によって規定される。それは彼らが主観的に何を考えていようと関係がない。

ここでいわれる階級は、経験的な社会学的な意味での階級ではない。だから、現在の社会において、『資本論』のような階級関係は存在しないというような批判は的外れである。現在だけでなく、過去においても、どこでもそのように単純な階級関係は存在しなかった。そして、マルクスが具体的な階級関係を考察するとき、諸階級の多様性、そして言説や文化の多様性について非常に敏感であったことは、『ルイ・ポナパルドのブリュメールの一八日』のような仕事を見れば明らかなのだ。一方、『資本論』では、マルクスは、資本制経済に固有の階級関係を価値形態という場において見ている。その意味では、『資本論』の認識はむしろ今日の状況によりよく妥当するといってよい。たとえば、今日では、労働者の年金は機関投資家によって運用されている。つまり、労働者の年金はそれ自身資本として活動するのである。その結果、それが企業を融合しリストラを迫ることになり、労働者自身を苦しめることになる。このように、資本家と労働者の階級関係はきわめて錯綜している。そして、それはもう実体的な階級関係という考えではとらえられないように見える。しかし、商品と貨幣、というよりも相対的価値形態と等価価値形態という非対称的な関係は少しも消えていない。『資本論』が考察するのはそのような関係の構造であり、それはその場に置かれた人々の意識にとってどう映ってみえようと存在するのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p40-41)

この文の次に、《しかし、このような見方は、読者を途方にくれさせる》と続くが、いまは割愛。

最後にニーチェは関係構造への視線が欠けていた、とする柄谷行人の文を掲げておく。

《「然り」〔Ja〕への私の新しい道。--私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭うべき側面をみずからすすんで探求することである。(中略)「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」--これが私には本来の価値尺度となった。(中略)この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまでーー(中略)このことにあたえた私の定式が運命愛〔amor fati〕である。》(ニーチェ『権力への意志』原佑訳)

ニーチェは『道徳の系譜学』や『善悪の彼岸』において、道徳を弱者のルサンチマンとして批判した。しかし、この「弱者」という言葉を誤解してはならない。実際には、学者として失敗し梅毒で苦しんだ二ーチェこそ、端的に「弱者」そのものなのだから。

彼が言う運命愛とは、そのような人生を、他人や所与のせいにはせず、あたかも自己が創り出したかのように受け入れることを意味する。それが強者であり、超人である。が、それは別に特別な人間を意味しない。運命愛とは、カントでいえば、諸原因(自然)に規定された運命を、それが自由な(自己原因的な)ものであるかのように受け入れるということにほかならない。それは実践的な態度である。

ニーチェがいうのは実践的に自由な主体たらんとすることにほかならず、それは現状肯定的(運命論的)態度とは無縁である。ニーチェの「力への意志」は、因果的決定を括弧に入れることにおいてある。

しかし、彼が忘れているのは、時にその括弧を外して見なければならないということである。彼は弱者のルサンチマンを攻撃したが、それを必然的に生みだす現実的な諸関係が存することを見ようとはしなかった。すなわち、「個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである」という観点を無視したのである。(『トランスクリティーク』第一部第3章 P187)

…………

さあてカタイ話のあとのデザート。ロラン・バルトで始めたのだから、バルトで終えよう。

静かに編物をしながら子供を遊ばせている申し分のない母親(保護者であってしかも放任的な)……「うまくいっている」カップルの構造とはそうしたものであるだろう。いささかの禁止と多くの自由。欲望を教示し、あとは自由にさせておく。道は教えてくれるが、一緒に行ってやるなどとは言い出さぬ、親切な土地の人たちのように。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』P208 )