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2014年10月6日月曜日

集団いじめへの「選択的非注意」

@kdxn: 結局この3年間重点を置いてやってきたことというのは、気楽に足を引っ張ろうとするやつの腕をがっつりつかんで離さず、不快な気分にさせるということの繰り返しだったのかも。その不快さの中に、問題の本質があるんだよ。(野間易通)

そうだな、反差別は差別の温床になるなどと言い募るだけで
なにもしないツイッター「正義派」の連中が大なる「標的」なんだよ

次は、ひどく「左翼」に怨みがあるらしい「マイノリティ=ひきこもり当事者」の
最近のツイートだがね(名前を挙げないでおくよ)。

いじめや差別にも言えることだが――集団的暴力については、メタなスローガンや「思い込み」はどうでもいい。左派が「自分は正義だ」と思い込んだところで、彼らは実際にひどいことをやっている。それは(いわば)唯物論的に検証すべきことで、彼らの自意識はどうでもいい。
差別の再生産装置として、左翼・リベラルの言説こそが、ひどい機能を果たしている。たったこれだけのことすら、まったく論じられていません。

もっともらしくTwitterでどっちもどっち論を繰り返し
ネトウヨの猖獗に貢献している「インテリ」くんたちの典型ツイートだな

闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。(浅田彰『憂国呆談』)

なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?


…………


まずはヘイトスピーチやレイシズムなどと言わないまでも
いじめやら嫌がらせという語彙群でいいのさ
嫌がらせる“harass”は語源としては侵略する、悩ますだが
ジジェクはこんなことを言っているな

「嫌がらせ〔ハラスメント〕」は、明確に定義された事実を指しているように見えながら、じつはひじょうに両義的に機能し、イデオロギー的なごまかしをしている語のひとつである。いちばん基本的なレベルでは、この語はレイプや殴打のような残酷な行為や他の社会的暴力を指す。いうまでもなく、そうした行為は容赦なく断罪されるべきだ。しかし、現在流通しているような「嫌がらせ」という語の使い方では、この基本的な意味が微妙にずれて、欲望・恐怖・快感をもった他の現実の人間が過度に近づいてくることに対する批難になっている。二つのテーマが、他者に対する現代のリベラルで寛容な姿勢を決定している。他者が他者であることを尊重して他者に開放的であることと、嫌がらせに対する強迫的な恐怖である。他者が実際に侵入してこないかぎり、そして他者が実際には他者でないかぎり、他者はオーケーである。ここでは寛容がその対立物と一致している。他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

とすれば、この曖昧な意味づけがなされてしまっている言葉よりも
あれはーーたとえば在特会の連中がやっていることはーー
まずは「いじめ」のほうがいいのかもしれない。

いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、使い走りでさえも、相互性があればよく、なければいじめである。 鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなるくるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。多数の者にとっては犠牲者にならなくてよかったという安心感である。多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。(中井久夫「いじめの政治学」ーー何もしないことのエクスキューズ

「在日」にGo home!というのは相互性がないよな
 街中でその集団いじめがあるのだよ
そのいじめを警察やマジョリティは見過しているのだな

池で溺れている少年、あるいはいじめられようとしている少女を目撃した場合に、見て見ぬふりをして立ち去るか、敢えて救助に向かうかの決定が紙一重となる瞬間がある。この瞬間にどちらかを選択した場合に、その後の行動は、別の選択の際にありえた場合と、それこそハサミ状に拡大してゆく。卑怯と勇気とはしばしば紙一重に接近する。私は孟子の「惻隠〔みてしのびざる〕の情」と自己保存の計算との絞め木にかけられる。一般に私は、救助に向かうのは最後までやりとおす決意とその現実的な裏付けとが私にある場合であるとしてきた。(中井久夫

徒党を組んだいじめ集団に苛立っても
少人数で対抗するのは難しいからな
選択的非注意」に憩うのだろ、きみたちは。
ーーそうだな、オレもやってきたよ
きみたちもいじめやら痴漢やらをみて
犠牲者にならなくてよかったという安心感を抱くのだろ?

《まるでありふれた風景を見たかのような通行人の無視、
それが警察右翼による在日に対するいじめを
普通の出来事として受け容れられる素地を作りだす》(ジジェク変奏)
ってわけだな

そうさ、きみたちは高度の政治的選択をやっているのさ
《混乱に対して共感を示さずにおくことの演じうる政治性に
無自覚であることの高度の政治的選択》というやつだな
あるいは《政治からは顔をそむけるふりをしながら
彼らが演じてしまう悪質の政治的役割》でもいい

 …………

遠巻きに「このようないじめは決して許すことはできません」
と言っても効果は現われないのは「経験上」知ってるよな

「カウンター行動は、これまで上品な左派リベラルの人も試みてきました。 ところが悲しいことに、『私たちはこのような排外主義を決して許すことはできません』とい った理路整然とした口調では、 たとえ正論でも人の心に響かない」

「公道で『朝鮮人は殺せ』『たたき出せ』と叫び続ける人々を目の前にして、冷静でいる方 がおかしい。 むしろ『何言っているんだ、バカヤロー』と叫ぶのが正常な反応ではないか。レイシストに 直接怒りをぶつけたい、 という思いの人々が新大久保に集まっています」(旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通

で、仲間を集めて、すなわちいわゆる「集団的暴力」で対抗して、
たとえば「レイシスト死ね!」と言って何が悪いんだろ?




導火線つけるには、あれしかなかったんじゃないかい?
「暴力」が嫌いな「善良な」手合いがいるのは分かるさ
足をひっぱるのだけはやめとけよ

《まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。
かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、
自分を善良だと思っている。》
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)
ーー「いまヘイトスピーチに反対しないで、あなたは他に何をするのか


@kdxn: ずーっと何年も人数が少なかった反ヘイト・カウンターおよびいろんな反レイシズム活動が去年爆発的に増えた本当の理由は、たぶん「しばき隊がムカつくから」だったんじゃないかと想像しております。

@kdxn: だって自分はレイシズム批判をずっとしてきたのに、しばき隊みたいなのだけが目立ったらイヤだし、だったら自分でも何かしてやるわい!みたいになるでしょ。ルイシャムの戦いがあらゆるメディアから総叩きになったのに、その後反レイシズムの動きが活発化したって話と似てるよね。(野間易通)

ーーとあるんだからさ、しばき隊にムカつくのはいいさ
ツイッターで手だけ動かして、正義派ぶるのだけはやめとけよ
反野間でいいんだから、顔はしばき隊の方じゃなくて、レイシストに向けろよな


山谷えり子サンが国家公安委員会委員長、すなわち警察のトップなんだからさ
インテリくんたちは何か決定的なところを外してるんじゃないかい?




総理大臣かい? 最近は名前を挙げるのさえイヤになったね








在日外国人などに嫌がらせをする目的で、徒党を組み、商店街に入って行こうとするレイシストが、カウンターや警察に行く手を阻まれると(ほんとは警察が率先してレイシストの嫌がらせを阻止すべきだったのですが、カウンターがレイシストの妨害をするようになってから、ようやく警察も動いてくれるようになったので、「警察やカウンター」ではなく、「カウンターや警察」という順序で書きました)、ワンパターンのように「ここは日本だ! 日本人が日本国内を自由に通行して何が悪い!」と喚きます。  

しかしナニ人であれ、迷惑行為を目的に、ある場所を通ろうとする場合、止めることは当然です。  

迷惑ならカウンター側もかけているかもしれませんが、これは警察のような権力を持たない市民が、迷惑行為加害者の進行を妨げるには、「人数」という武器に頼るしかないからです。  

仮にビルの上などから、レイシストを狙撃しても構わないのであれば、少人数で事足ります。しかし、そんなことはできませんから、やむにやまれず大勢の怒号を持って、レイシストの嫌がらせを止めるしかないのです。  

ここまでしなければならないのは、警察がレイシストの嫌がらせ行為を黙認してきたからです。そして日本に、ヘイトスピーチ規制法が存在しないからです。  

警察がヘイトスピーチ規制法を根拠に、サクッとレイシストを取り締まってくれるのであれば、カウンターが大挙出動する必要もありません。  

逆に、ヘイトスピーチ規制法が作られないのであれば、カウンターが大勢でレイシストの嫌がらせを止めるのも、やむを得ないことと心得て下さい。  

ここまでわかりやすく書いても、尚文句を言いたい方は、まずレイシストに言って下さい。しかし文句だけでレイシストの嫌がらせをやめさせられるのであれば、やはりカウンターはいりません。(大石規雄BLOG 低く 飛ぶ

 などと「引用」しても、馬の耳に念仏なのはわかってるさ

聞きたいことは信じやすいのです。はっきり言われていなくても、自分が聞きたいと思っていたことを誰かが言えばそれを聞こうとするし、しかも、それを信じやすいのです。聞きたくないと思っている話はなるべく避けて聞こうとしません。あるいは、耳に入ってきてもそれを信じないという形で反応します。(第2の戦前・今日  加藤周一 2004ーー「なんのために」ーーー加藤周一『羊の歌』より

やっぱりこうでも言っておくより他ないんじゃないか、
善良な「どっちもどっち」論者のインテリくんたちに対しては。

人間は諸関係の中で死ぬのである限り、死ぬ自由などありはしないと思った。死のうとする意志がどうしようもなくあるのは認めるが、死ぬ自由などないのである。

その考えは、ぼくの倫理でもあるが、ぼくはその時、奇妙なことに、なにひとつまっとうな人間としてものを考えようとしないやつらは、生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね、そうすれば皮でもはいで肉を犬にでもくれてやる、と思ったのだった。おもしろい反応である。(中上健次『鳥のように獣のように』

まあオレは中上健次ほどまでは言うつもりはないがね
だがまっとうな人間としてものを考えてみろよ、
たとえば次の文を。


野間はこれまでずっと、「冷笑主義者」の「どっちもどっち論者」と戦ってきたと語る。彼ら は「自分をリベラルだと思って」おり、「正義と言っている側にもじつは不正義があるのだ」と いう話を好む。たしかに、思い当たる節がないわけではない。だがそれでも、ひとつの立場を絶対的な正義と位置づけることが危険性を孕むのは、歴史的に明らかだ。

「そらそうかもしらんけどさ。今、『正義のなかにも不正義がある』と言うのがそんなに重要ですか? あれだけひどいレイシズムが蔓延しているなかで、それを正そうとする人たちだっ て聖人君子ではない。ポリティカリー・インコレクトな場合もあるでしょう。レイシズムの方が 不正義としては断然問題が大きいのに、『ニューズウィーク』の深田のように『正義の中に も不正義が…』ってことばかり言いたがるのって、単なるサボりでしょ。何がいちばんの問題か。それをちゃんと共有していこうよ。賢くない人であればあるほど、ちゃんとそれができ るわけです。ヘイトスピーチはおかしいと分かる。自分はちょっと賢いぞ、と思ってるような、 でも実際にはアホなやつらが、いろいろとこねくり回して『本当の正義などないのだ』みた いな、クソくだらない結論に至って悦に入る。安い理屈で価値の相対化をする前に、もっと 普通に考えろよということです」(何もしないことのエクスキューズ)