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2014年10月16日木曜日

見出された「権力への意志」=「死の欲動」

ドゥルーズの『差異と反復』に、ここ数日、権力への意志=死の欲動をめぐって書いた内容がすべて書かれている。マイッタネ、--英訳しか手元になくて読むのを敬遠してたんだけど。

When Kierkegaard speaks of repetition as the second power of consciousness, 'second' means not a second time but the infinite which belongs to a single time, the eternity which belongs to an instant, the unconscious which belongs to consciousness, the 'nth' power. And when Nietzsche presents the eternal return as the immediate expression of the will to power, will to power does not at all mean 'to want power' but, on the contrary: whatever you will, carry it to the 'nth' power - in other words, separate out the superior form by virtue of the selective operation of thought in the eternal return, by virtue of the singularity of repetition in the eternal return itself. Here, in the superior form of everything that is, we find the immediate identity of the eternal return and the Overman.
The Proustian formula 'a little time in its pure state' refers first to the pure past, the in-itself of the past or the erotic synthesis of time, but more profoundly to the pure and empty form of time, the ultimate synthesis, that of the death instinct which leads to the eternity of the return in time.

永劫回帰とはキルケゴール的な意味での「反復」とされている(参照:二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」)。

希望は腕の間をすり抜けていく可愛い娘である。想起は今ではもう役に立たない美しい老婦人である。反復は、けっしてあきることのない愛妻である。なぜなら、あきがくるのは新しいものだけだからである。古いものはけっしてあきることがない。(キルケゴール)
同一的な規則を前方に想定するような行為は「想起」(キルケゴール)にほかならないが、そうでない行為、規則そのものを創りあげてしまうような行為は、「反復」または「永劫回帰」とよばれる。(ドゥルーズ『探求Ⅱ』)

この英訳では"death instinct”となっているが、これはラカン派なら"death drive”(死の欲動)であり、プルーストの 'a little time in its pure state' 《きらりとひらめく一瞬の持続、純粋状態にあるわずかな時間》は、死の欲動にかかわり、永劫回帰にも関係するとされている(そして永劫回帰は権力の意志の表現と)。

権力への意志が原始的な欲動形式であり、その他の欲動は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)
私が説く教義は、こうである。「きみがいま経験している生を、再び生きたいと当然願うことになるような仕方で、生きよーーそれこそが義務なのだ。なぜなら、いずれにせよ、きみはその生を再び生きることになるのだから! 努力することが最高の歓びである者は、充分に努力すればよい! なによりも休息を好む者は、ゆっくり休めばよい! なによりもまして服従するのが好きな者、従順で、後につき従うのが好きな者は、思う存分服従するがよい! ただしそういう者は誰であれ、自分の選択が優先的にどこへ向かうのかは知っておかねばならない。またいかなる手段を前にしたときでも、けっしてたじろいだり、後込みしたりしたはらなない! そこで問題となっているのは、それが永遠に反復されるということなのだから」。

この教義は、それを信仰しない人々に対してまったく厳格ではない。地獄墜ちになるとか、その他さまざまの脅迫など少しも持たない。ただそれを信仰しない者は、自らのうちにすぐに消え去る、束の間の生命しか感じ取ることはないであろう。(1881年の「遺された断想」より『〈力〉への意志』第四部――ドゥルーズ『ニーチェ』からの孫引き 湯浅博雄訳)
私がなにを欲するにせよ(たとえば私の怠惰、貪欲、臆病、あるいは私の美徳でもよいし悪徳でもよい)、私はそれが永遠に回帰することもまた欲するような仕方で、それを欲するのでなければならない。「生半可な意志」たちの世界はふるい落とされる。「一度だけ」という条件でわれわれが欲するようなものは、すべてふるい落とされるのである。たとえ臆病、怠惰であっても、それが自らの永遠の回帰を欲するとするならば、怠惰や臆病とは別のものになるだろう。それらは能動的になり、そして肯定の〈力〉となるであろう。(ドゥルーズ『ニーチェ』湯浅博雄訳 文庫P67)


ドゥルーズの言う死の欲動とは、実は「死なない」衝動であり、永遠の反復衝動である。

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

死の欲動とはアンデルセンの童話「赤い靴」なんだ
少女が赤い靴を履くと靴は勝手に動き出し
彼女はいつまでも踊り続けなければならない
靴は少女の無限の欲動ということになるわけだ

灯火にむれる蛾の、灯りを目ざしてはそれてゆく、その反復運動
おれたちの生はTriebmischung(エロスとタナトスの欲動融合)なのさ
いわれてみればあたりまえなんだけどな(赤い靴と玄牝の門

-- というわけで、プルーストの見出された時から引用しておこう。

単なる過去の一瞬、それだけのものであろうか? はるかにそれ以上のものであるだろう、おそらくは。過去にも、そして同時に現在にも共通であって、その二者よりもさらにはるかに本質的な何物かである。これまでの生活で、あんなに何度も現実が私を失望させたのは、私が現実を知覚した瞬間に、美をたのしむために私がもった唯一の器官であった私の想像力が、人は現にその場にないものしか想像できないという不可避の法則にしばられて、その現実にぴったりと適合することができなかったからなのであった。ところが、ここに突然、そのきびしい法則の支配力が、自然のもたらした霊妙なトリックによって、よわまり、中断し、そんなトリックが、過去と現在とのなかに、同時に、一つの感覚をーーフォークとハンマーとの音、本のおなじ表題、等々をーー鏡面反射させたのであった。そのために、過去のなかで、私の想像力は、その感覚を十分に味わうことができたのだし、同時に現在のなかで、物の音、リネンの感触等々による私の感覚の有効な発動は、想像力の夢に、ふだん想像力からその夢をうばいさる実在の観念を、そのままつけくわえたのであって、そうした巧妙な逃道のおかげで、私の感覚の有効な発動は、私のなかにあらわれた存在に、ふだんはけっしてつかむことができないものーーきらりとひらめく一瞬の持続、純粋状態にあるわずかな時間――を、獲得し、孤立させ、不動化することをゆるしたのであった。あのような幸福の身ぶるいでもって、皿にふれるスプーンと車輪をたたくハンマーとに同時に共通な音を私がきいたとき、またゲルマントの中庭の敷石とサン・マルコの洗礼堂との足場の不揃いに同時に共通なもの、その他に気づいたとき、私のなかにふたたび生まれた存在は、事物のエッセンスからしか自分の糧をとらず、事物のエッセンスのなかにしか、自分の本質、自分の悦楽を見出さないのである。私のなかのその存在は、感覚機能によってそうしたエッセンスがもたらさえない現在を観察したり、理知でひからびさせられる過去を考察したり、意志でもって築きあげられる未来を期待したりするとき、たちまち活力を失ってしまうのだ。意志でもって築きあげられる未来とは、意志が、現在と過去との断片から築きあげる未来で、おまけに意志は、そんな場合、現在と過去とのなかから、自分できめてかかった実用的な目的、人間の偏狭な目的にかなうものだけしか保存しないで、現在と過去とのなかの現実性を骨ぬきにしてしまうのである。ところが、すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂が、現在と過去との同時のなかで、すなわち現時ではなく現実的であり、抽象的ではなく観念的である二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまりにして、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我がーーときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我がーーもたらされた天上の糧を受けて、目ざめ、生気をおびてくるのだ。時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。それで、この人間は、マドレーヌの単なる味にあのようなよろこびの理由が論理的にふくまれているとは思わなくても、自分のよろこびに確信をもつ、ということがわれわれにうなずかれるし、「死」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそとに存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう?(井上究一郎訳)


前には書かなかったけれど、大江健三郎の「一瞬よりはいくらか長く続く間」ってのは、もちろんプルーストからのパクリさ、--《きらりとひらめく一瞬の持続、純粋状態にあるわずかな時間》

それからは、自分を訓練するようにして、人生のある時々にさ、その一瞬よりはいくらか長く続く間をね、じっくりあじわうようにしてきたと思う。それでも人生を誤まつことはあったけれど、それはまた別の問題でね。このように自分を訓練していると、たびたびではないけれどもね、この一瞬よりはいくらか長く続く間にさ、自分が永遠に近く生きるとして、それをつうじて感じえるだけのことは受けとめた、と思うことがあった。(大江健三郎)

というわけで、死の欲動やら権力への意志やらぐたぐた考えずにーーやっぱりたいていの学者ってのは阿呆だね、阿呆というか不感症というのか……このふたつの概念をめぐって論じるのはいいのだけれど(いやいや同時に論じいているやつは日本にはいそうもないな)、みずからの「永遠」の刻限がなさそうな連中ばかりだからな、いくら堅い論文でも、この己れの「正午」があれば文章に「痕跡」が残るはずだが、その気配が微塵もないような論文ばかりさーー、いずれにせよプルーストのいう《きらりとひらめく一瞬の持続の時間》、その、時間が垂直に立ち上がる「永遠」の刻限、これを味わうのが、真の人生だぜ、--《「死」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそとに存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう?》

ニーチェの「正午」でも西脇の「正午」もそのうちのひとつさ、(神々しいトカゲ)。

開け胡麻! ってわけさ、「扉を開く読書、アリババの呪文、魔法の種」。

別になにも高級な芸術作品でなくてもいいんだよ、
プルーストは石鹸の広告でいっていってるぜ。

われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」井上究一郎訳

というわけで、きみたちも「正午」を探せよ。

ニーチェも正午を探していると言っていた。垂直に光が差す。影の消える刻限。一瞬だけ原型さえもが見えなくなる。夜は思い出でさえなくなり、昨日のなかへ遠ざかり、消滅する。樹々の影も一瞬消え失せ、キリコの絵のなかの街路も、また別の日常の神秘に覆われることになる。見回しても、輪遊びしている少女もいない。ありえない蒸発、停止。諸々の生の停滞、とランボーがうんざりして言ったのはこのことではない。そうではなく、ただひとつの停止。あっという間のことである。一瞬だけ感情も来歴も何もかもが外に追い出される。お払い箱なのだ。(正午を探す街角