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2014年10月12日日曜日

神々しいトカゲ

読書の快楽のーーあるいは、快楽の読書のーー類型学を想像することができる。それは社会学的な類型学ではないだろう。なぜなら、快楽は生産物にも生産にも属していないからである。それは精神分析的でしかあり得ないだろう。

そして、読書の神経症とテクストの幻覚的形式とを結びつけるだろう。フェティシストは、切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いているだろう。強迫神経症者は、文字や、入れ子細工状になった二次言語や、メタ言語に対する官能を抱くだろう(この部類には、すべての言語マニア、言語学者、記号論者、文献学者、すなわち、言語活動がつきまとうすべての者が入るだろう)。偏執症者(パラノイア:引用者)は、ねじれたテクスト、理屈として展開された物語、遊びとして示された構成、秘密の束縛を、消費し、あるいは、生産するだろう。(強迫症者とは正反対の)ヒステリー症者は、テクストを現金として考える者、言語活動の、根拠のない、真実味を欠いた喜劇に加わる者、もはやいかなある批評的視線の主体でもなく、テクスト越しに身を投げる(テクストに身を投影するのとは全く違う)者といえるであろう。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

…………

〈フェティシストとしての切り取られたテキスト収集の試みのひとつ》


坂を上つて行く 女の旅人
突然後を向き
なめらかな舌を出した正午

……この真っ昼間、……
トカゲも壁の割れ目にもぐり、
墓守ヒバリも見えない時刻なのに。
……
実もたわわなスモモの枝が
地面に向かってしなだれる。
――テオクリトス『牧歌(Idyllia)』第7歌(古澤ゆう子訳)

まだこの坂をのぼらなければならない
とつぜん夏が背中をすきとおした
石垣の間からとかげが
赤い舌をペロペロと出している

生垣にはグミ、サンショウ、マサギ
が渾沌として青黒い光りを出している

なぜ生垣の樹々になる実が
あれ程心をひくものか神々を貫通
する光線のようなものだ 

女は男の種を宿すといふが
それは神話だ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

イボタの繁みから女のせせら笑いが
きこえてくる。

…………

つつしむがいい。
熱い正午が野いちめんを覆って眠っている。
歌うな。静かに。世界は完全なのだ。

歌うな。草のあいだを飛ぶ虫よ。
おお、わたしの魂よ。囁きさえもらすな。
見るがいいーー静かに。
老いた正午が眠っている。
いまかれは口を動かす。
幸福の一滴を飲んだところではないか。――

金色の幸福、金色の葡萄酒の、
古い褐色の一滴を飲んだところではないか。
ちらとかれの顔を過ぎるものがある。
かれの幸福だ。かれの幸福の笑いだ。
神――に似た笑いだ。
静かに。――

『幸福になるには、どんなにわずかなことで事足りるだろう』
わたしはかつてそう語って、自分を賢いと思った。
しかしそれは、たいへんな冒であった。
そのことをわたしはいま学んだ。
阿呆でも、りこうな阿呆なら、もっとましなことを言うだろう。

まさに、ごくわすかなこと、こくかすかなこと、
ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ、
一つの息、一つの疾過、一つのまばたきーー
まさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。
静かに。――

わたしに何事が起こったのだろう。
聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。
わたしは落ちてゆくのではなかろうか。
落ちたのではなかろうか、――
耳をこらせ! 永遠という泉のなかに。

わたしに何事が起こるのだろう。
静かに。わたしを刺すものがあるーー
あっ!――心臓を刺すのか。心臓を刺すのだ! 
おお、裂けよ、裂けよ、心臓よ、
このような幸福ののちには、
このように刺されてのちには。――

どうだ! 世界はいままさに完全になったのではないか。
まろやかに熟れて、おお、金の円環よ、――
どこへ飛んでゆくのだ。わたしはそのあとを追う、身もかるく。

静かにーー


(ニーチェ「正午」)

…………

ちようど二時三分に
おばあさんはせきをした
ゴッホ

野原をさまよう時
岩におぎようやよめなをつむ
 女のせきがきこえる

この小径は地獄へゆく昔の道
プロセルピナを生垣の割目からみる
偉大なたかまるしりをつき出して
接木している

向うの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうっている

灌木について語りたいと思うが
キノコの生えた丸太に腰かけて
考えている間に

もう秋は四十女のように匂い始めた

生垣をめぐらす人々は自分の庭の中で
神酒を入れるヒョウタンを磨き始めた。

黒い畑の中に白い光りのこぶしの木が
一本立つている

小雨が降り出して埃の香いがする

タバコをやめたから
ダンヒルのパイプを河原のすすきの中へ
すててヴァレリの呪文を唱えた
「お前さんは曲がつている。すずかけの木よ」

美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを
かたむけてシェリー酒をのんでいる

女神は足の甲を蜂にさされて
足をひきずりながら六本木へ
膏薬を買いに出かけた

けやきの木の小路を
よこぎる女のひとの
またのはこびの 青白い
終わりを

「見よこの人を」空をみあげるとキンモクセイの黒い
大木が老人のように立っている
アテネの女神のような髪を結つたそこの
おかみさんがすっぱい甘酒とミョウガの
煮つけをして待つているのだ

「今日はよいところへお出で下さいました
友達が毒のはいらない酒を二本もつて
来て下さつたところです」

さわらのさしみとなすで神々の饗宴となつた

…………

廃墟には、白い鈴のような花をつけた
アスフォデロスが咲いているのを発見し、
黄泉の国の花といわれるこの忘れ花を摘みとって
若い女への贈物にする。
女はあの「歩みゆく女」の歩き方を実演してみるが、
古代のサンダーレのかわりに薄茶色に光る
美しい皮靴をはいている。

夢に蜥蜴が出てくる、
その前日、廃墟に生身の女がすっと消えた、
その跡を追ってみると、
「非常に細い身体つきの人なら」
通りぬけられるくらいの一つの割れ目があった。

《狭い割れ目を無理に通り抜けるということや、
そのような割れ目に姿を消すということは、
蜥蜴の動作を思い出させるに十分ではなかったろうか》、
と書くのはフロイトである。

《この若い考古学者のグラディーヴァに関するさまざまな空想は
忘れ去られた幼児期の記憶の余韻ではないかという
一条の光明が突然われわれに向かって射してはこないだろうか》

《それから左手でトレスをちょっともち上げながら、
女は夢見るように見入る彼の眼差しを背に受けて、
あの落ち着いた軽やかな足どりで、
陽のふりそそぐ中を飛び石を伝いながら、
通りの向う側へと一歩一歩進んでいった》――


…………

神話において禁止の形式をとるものは、元来、失われたものです。禁止は失われたものについての神話です。「享楽の垣根における欲望の災難[Mesaventure du desir aux haies de la jouissance]」 とラカンが上品に呼んでいるのはこれです。欲望が享楽に向かって進もうとするときはいつでも、それはトカゲの尻尾のように落ちます[ca tombe]。これが-φの素晴らしい表現であり、また、対象a の表現でもあることを認めなければなりません。対象a とは、すなわち、空虚を埋める失われた対象です。また、ここで「同一化は欲動を満たすことなしに欲望によって決定される」とラカンが言うとき、フロイトの第二局所論についてのラカンの読みがその真価を発揮します。
欲望と欲動は混同されてはならない二つの異なった秩序なのです。(ミレール)

享楽の垣根における欲望の災難
女の生垣からのぞくトカゲの尻尾

もうラカンは放り出して、フロイトしか読まぬようにしようと決心しかけたこともある。だが、結局わたしは抗しがたい力に惹かれるようにして、謎めいたラカンに戻ってくる。すると突然に、あのディスクールから一条の光が射し、ちょうど飛行機が雲をつらぬいて飛ぶときのように、一片の青空が垣間見える、たったひとつの言い回しが永遠の響きを奏で、ひとつの段落が、ほかの著者だったら二十頁もついやしたであろうほどの豊かな内容を凝縮しているように思われる。狂気、喜び、自由——人間の本質について語るこの声は、深い感動をもたらして、その親しげで快い響きを聞いていると、ちょうど、わたしたちそれぞれの内にあって、ずっと以前から言葉が見出されるのを待っていた思想が、みずから口を開いて語りはじめたかのようだ。そうなると、テクストを読みすすむわたしは、あちこちで、おかしな、楽しい、さわやかな話に行き会うだろう。彼の気取りと見えていたものは、いまや気取りのパロディーとなり、彼の晦渋さはユーモアの効果にほかならぬように見えはじめ、一行ごとに、禅の著作を浸しているのと同じ、あの声なき笑いが聞こえてくる。モーリス・パンゲ「文人ラカン」(工藤庸子訳)

 …………


ほんとうにこの書は、
岩塊のあいだで日なたぼっこをしている海獣のように、
身をまるめて、幸福そうに、
たっぷり日をあびて寝ころんでいるのだ。
つまるところ、わたし自身がその海獣だったのだ。

この本の一文一文が、ジェノヴァ附近の、
あの岩がごろごろしているところで、
考え出され、生捕りにされたものである、
そのときわたしのそばには誰もいず、
わたしはひとりで海と秘めごとをしていたのだった。

いまでも偶然この本に手を触れることがあると、
ほとんどその中のすべての箇所がわたしには、
何か類のないものをふたたび深みから
引き上げるためのつまみ場所となる。
そしてその引き上げたものの肌全体が、
追憶のかすななおののきによってふるえているのである。

この本における得意の技術は、
軽やかな音もなく走りすぎていくものたち、
わたしが神々しいトカゲと名づけている瞬間を、
ちょっとのま釘づけにするという、
けっして容易ではない技術であるーー

といっても、あの若いギリシアの神が
あわれなトカゲを突き刺したような残酷さでするのではない。
だが、尖ったもので突き刺すことでは、同じだ、
つまりわたしはペンで突き刺すのだ……

「いまだ輝き出でざるあまたの曙光あり」--
このインドの銘文が、この本の扉にかかげられてある。

ーーニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳

…………

行分けだけを頼りに書きつづけて四十年
おまえはいったい誰なんだと問われたら詩人と答えるのがいちばん安心
というのも妙なものだ

ーーー谷川俊太郎「世間知ラズ」


とくにことわりのない場合以外は、西脇順三郎詩集から(段落毎に別の詩から)。
ただしフロイトの『グラディーヴァ』は、引用者によりかなり編集してある。
ニーチェ、フロイトの文の行分けは、引用者による。


…………


詩の擁護又は何故小説はつまらないか
                               谷川俊太郎

「詩は何もしないことで忙しいのです」ビリー・コリンズ(小泉純一訳)


初雪の朝のようなメモ帳の白い画面を
MS明朝の足跡で蹴散らしていくのは私じゃない
そんなのは小説のやること
詩しか書けなくてほんとによかった

小説は真剣に悩んでいるらしい
女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか
それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか
そこから際限のない物語が始まるんだ
こんぐらかった抑圧と愛と憎しみの
やれやれ

詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないではないけれど

小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、
子どものころ住んでいた路地の奥さ

そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに
ごめんね

 人間の業を描くのが小説の仕事
人間に野放図な喜びをもたらすのが詩の仕事

小説の歩く道は曲がりくねって世間に通じ
詩がスキップする道は真っ直ぐ地平を越えて行く

どっちも飢えた子どもを腹いっぱいにしてやれないが
少なくとも詩は世界を怨んじゃいない
そよ風の幸せが腑に落ちているから
言葉を失ってもこわくない

小説が魂の出口を探して業を煮やしてる間に
宇宙も古靴も区別しない呆けた声で歌いながら
祖霊に口伝えされた調べに乗って詩は晴れ晴れとワープする


人類が亡びないですむアサッテの方角へ