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2014年10月21日火曜日

Encore, encore ! --快・不快原理の彼岸=善悪の彼岸

フロイトとニーチェの仲良しぶりを探るのにもやや飽きてきたので、
いつもにもまして雑然と書くことにする。

…………

表題に示したように
Jenseits des Lustprinzips『快原理の彼岸』ってのは
Jenseits von Gut und Böse『善悪の彼岸』のパクリだよ

快原理とは、快・不快Lust und Unlustの原理のことだからな

そして善悪の彼岸ってのは権力への意志さ
快・不快の彼岸は欲動(衝動)でね

権力への意志というのは衝動(impulusion)さ
ドゥルーズの権力=〈力〉puissanceを活かしたいのなら
権力への意志は、〈力〉puissanceへの衝動implusionさ
いや”への”じゃなくて〈力〉衝動かもな

フロイト=ラカン派なら欲動、あるいは死の欲動ってわけ
すべての欲動は潜在的には死の欲動だからな
《…toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.》 (Lacan Ecrit 848)

享楽の漂流だっていいさ

きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dériveと命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽のdérive(drift)漂流?」と翻訳する。(ラカンセミネールⅩⅩアンコール私訳)

で、それでどうしたってんだ?
灯火にむれる蛾の、灯りを目ざしてはそれてゆく、その永劫回帰
おれたちの生の形式はTriebmischung(エロスとタナトスの欲動融合)さ

権力への意志が原始的な欲動=情動(Affekte)形式であり、その他の欲動(Affekte)は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

死の欲動=権力への意志が人間の根源的なものだとしても
そう分かって何かの役に立つのかいね
どうたい? 大地と合体しようとして(エロス)
土の中に死(タナトス)をみてしまった中上健次よ
それでも永劫回帰(反復運動)するかね

秋幸はまた働いた。自分が考えることもない一本の草の状態にひたっていたかった。過去も未来もない。風を受けとめ、光にあぶられて働く。土がつるはしを引くと共に捲れ、黒く水気をたくわえた中を見せる。それは土の肉だった。土の中に埋まって掘り出された石はさながら大きな固い甲羅を持つ動物が身を丸めて眠っている姿だった。いや死体に見えた。土の中の石は死そのものだ。肉も死も日に晒され、においを放ち、乾いた。掘り出され十分もすればそれらは風景の中に同化した。(中上健次『枯木灘』ーーエロスとゆらめく閃光

ロマン派をバカにできる程度じゃないか
憐れみとか惻隠の情とかいってるホモセンチメンタリスたちを。


クロソウスキーは、ニーチェ用語、
欲動Triebe、欲望Begierden、本能Instinke、
権力Machte、力Krafte、衝動Reixe, Impulse、
情熱Leidenschaften、感情Gefiilen、情動Afekte、
情熱Pathosを、ひとまとめに衝動implusionとするのだけれど、
フロイトやラカン用語のTriebやらDrangやらEncoreやらってのも
衝動implusionでいいさ。

主体は、己のa(対象a)の完全な応答を得る/与えるのを確信するために、(母)他者〔(m)other〕を独占したい。だがそのような完全な応答は不可能である。そこにはつねに残余があり、“ Encore”(もっと、またもっと)の必要の切迫がある。“ Drang ”(衝拍、もしくは圧力)は、ドライブ〔欲動の継続〕したままだ。

The subject wants the (m)other all to itself, to be sure of getting/giving a complete answer to (a). Such a complete answer is impossible, there is always a remainder and a necessity for an “ Encore ” : the “ Drang ” keeps driving .……(『Sexuality in the Formation of the Subject』 Paul Verhaegheーー部分欲動と死の欲動をめぐる覚書

ーーここでの“ Encoreは、もちろんラカンのセミネールⅩⅩの題名であり、そこでの大きな主題は欲動(享楽)だ。そして Drang は、フロイトの『欲動とその運命』における、欲動の四つの区分のうちの最重要なひとつである。


われわれは欲動の概念と関連して使用される若干の術語を検討することにしたい。それは欲動の衝迫 Drang、目標 Ziel 、対象 Objekt、源泉 Quelleなどの言葉である。(フロイト『欲動とその運命』)

フロイトはこのDrang以外にも、
Affektbetrag  Erregungssumme  QuantitativeFaktorなどと言ってるのだが、
まあ全部クロソウスキーのimplusionでいいさ、あるいは権力への意志でね

お、藤田博史センセいいこといってるじゃん。

欲動の衝迫というのは、欲動の運動モーメントとか力の総和とか作業要求の尺度のことです。いわば欲動の本質といってもよいでしょう。フロイトは「あらゆる欲動は一片の能動性である」と表現しています。つまり欲動とはひとかたまりの能動性のことなのだと。能動性こそが欲動における本質的なものと見なしているわけです。(藤田博史 セミネール断章 2012年 9月8日講義より

まるで、権力への意志の定義みたいだぜ。

…………

 ところで、次の文は、ニーチェの快・不快の彼岸じゃないかい?

『快』の本質が適切にも権力の『増大感』として(だから比較を前提とする差異の感情として)特徴づけられたとしても、このことではまだ『不快』の本質は定義づけられてはいない。民衆が、《したがって》言語が信じこんでいる誤った対立こそ、つねに、真理の歩みをさまたげる危険な足枷であった。そのうえ、小さな不快の刺激の或る《律動的連続》が一種の快の条件となっているという、いくつかの場合があり、このことで、権力感情の、快の感情のきわめて急速な増大が達成されるのである。これは、たとえば痒痛において、交接作用のさいの性的痒痛においてもまたみられる場合であり、私たちは、このように不快が快の要素としてはたらいているのをみとめる。小さな阻止が克服されると、ただちにこれにつづいてまた小さな阻止が生じ、これがまた克服される──抵抗と勝利のこのような戯れが、快の本質をなすところの、ありあまり満ちあふれる権力のあの総体的感情を最も強く刺激すると思われる。(ニーチェ『権力への意志』「第三書・二・三・権力への意志および価値の理論」原佑訳)
人間は快をもとめるのでは《なく》、また不快をさけるのでは《ない》。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。快と不快とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《権力の増大》である。この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの権力への意志を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。──不快は、《私たちの権力感情の低減》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの権力感情へとはたらきかける、──阻害はこの権力への意志の《刺戟剤》なのである」(同『権力への意志』第三書)

当面、『自我とエス』1923から次の文を抜き出しておく。

快の性質をおびた感覚は、人を促拍させるものをひとつももたないが、不快の感覚は最高度にそれをもっていて、変化と放出をうながす。それゆえ、われわれは不快をエネルギー備給の上昇、快をその低下と関係させて理解する。快および不快として意識されるものを、精神過程における質的にも、量的にも「別のもの」das Andere とみなすならば、このような別のものは、そのまま現場で意識されるか、あるいは、知覚体系Wにまでみちびかれなければならないかどうかという疑問が生れる。

臨床経験がこのことに決定をくだす。臨床経験によれば、この「別のもの」は抑圧された興奮のようにふるまう。それは人を駆りたてる力を発揮するが自我はその強迫に気づかない。その強迫に抵抗し、放出反応を停止するときに、はじめてこの「別のもの」はすぐに不快として意識される。(フロイト『自我とエス』フロイト著作集6 P271-272)


フロイトの『快感原則の彼岸』1920の冒頭にはこうある。

精神分析の理論では、何のためらいもなく、自動的に快感原則Lustprinzipsに支配されて信仰すると仮定している。すなわち、そのつどある不快な緊張によって喚びおこされ、ついでこの緊張の減退をもたらすような結末、つまり不快を避け、快を生むような結末にむかってすすむものと考える。

……われわれにとって、のっぴきらない快と不快との感覚が、いったい何を意味するものであるかを教えてくれる哲学や心理学の学説があるならば、われわれはよろこんで感謝の意を表わさなければならないだろう。しかし、残念ながらこの場合、役に立つものは何ひとつ提供されていない。問題は、精神生活のもっとも暗黒の近寄りがたい領域にかかっているからである。(……)

ところで、快感原則が心理的過程の進行の仕方を支配するものときめてかかることは、厳密には正しくないといわねばならない。

快と不快の感覚Lustund Unlustempfindungenが、何を意味するのかを教えてくれる哲学や心理学の学説はない、としている。だが、しばらく読み進めると、次のようにある。

しかし、本能的なものは、反復への強迫とどのように関係しているのであろうか? ここでわれわれは、ある一般的な、従来明らかに認識されなかったーーあるいは少なくとも明確には強調されなかったーー本能の特性、おそらくすべての有機的生命一般の特性について、手がかりをつかんだという思いが浮かぶのを禁じえない。本能とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を回復しようとするものであろう。以前の状態とは、生物が外的な妨害力の影響のもとで、放棄せざるをえなかったものである。また本能とは、一種の有機的な弾性であり、あるいは有機体生命における惰性の表明であるとも言えよう。(フロイト『快感原則の彼岸』フロイト著作集6 p172)

そして次の註記が付されている、《「本能」の性質について同じような推測が、すでに繰りかえし表明されていることを私は疑わない。》

ここでの「本能」は新訳なら、「欲動」と訳されているはずだが、岩波新訳にあたっているわけではない。独原文は次の通り、《Ich bezweifle nicht, daß ähnliche Vermutungen über die Natur der »Triebe« bereits wiederholt geäußert worden sind.


《「欲動」の性質について同じような推測が、すでに繰りかえし表明されていることを私は疑わない。》――冒頭に、《快と不快の感覚が、何を意味するのかを教えてくれる哲学や心理学の学説はない》としつつ、「欲動」の「反復強迫」については、すでに誰かが繰りかえし言っていることに、フロイトは気づいている、ーーと読んでよいだろう。

《〈欲動〉とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を回復しようとするものである》とするフロイトだが、《以前のある状態を回復する》とは、回帰のことであり、とすれば、永劫回帰を想起せざるをえない。

ところで、20世紀後半の、二人の偉大なニーチェ読みは、永劫回帰とは、権力への意志の隠喩であると、あっさりオッシャッテイル。ここでは邦訳でもなく仏原文でもなく、英訳から抜き出す。

◆クロソウスキーの『ニーチェと悪循環』より。

The Eternal Return lies at the origin of the rises and falls of intensity to which it reduces intention. Once it is conceived of as the return of power - that is to say, as a series of disruptions of equilibrium - the question then arises of knowing whether, in Nietzsche's thought, the Return is simply a pure metaphor for the will to power.

◆ドゥルーズの『差異と反復』より。

Nietzsche presents the eternal return as the immediate expression of the will to power, will to power does not at all mean 'to want power' but, on the contrary: whatever you will, carry it to the 'nth' power - in other words, separate out the superior form by virtue of the selective operation of thought in the eternal return, by virtue of the singularity of repetition in the eternal return itself. Here, in the superior form of everything that is, we find the immediate identity of the eternal return and the Overman.

ニーチェはどこでそんなことを言ってるのだろうと、『権力への意志』のpdf版を――これも英訳なのだが、――検索してみたが、直接には永劫回帰は権力の意志の表現であるなどとは言っていない。ただクロソウスキーが延々と引用する『権力への意志』の遺稿からそう読めないでもない、ということはある(クロソウスキーの『ニーチェと悪循環』は、ドゥルーズに捧げられている)。

もっともクロソウスキーとドゥルーズの解釈はここまでは同じとしても、このあとの展開がひどく異なるという指摘が、樫村晴香の『ドゥルーズはどこが間違っていたか』にある。この論文は、ハイデガーとドゥルーズのニーチェ解釈に異議をとなえ、クロソウスキー解釈を顕揚する気味がある。「対象関係」という語彙にいささか齟齬を感じつつも、ここですこし長く引用してみよう。


ここで重要なのは、この分裂病的な「悪循環」は、固有に性的なものの作動と切り離 せず、単純な過程ではないことである。一般に性的な活動は抑圧されることによって、より 蒼古的な反復運動(反復強迫)として、対象関係から(てんかんのように)分離‐孤立して 発現するが、反復とは原初的な模倣(擬態/偽装)活動であるゆえに、まさに反復される 自己の(直前の)運動は、模倣される原初的他者=対象の相同物の感触と価値をもつ。性 的なもの(享楽/強度)によって、他者が想像‐幻想から切り離され、切り刻まれた物質的 基体(=反復)として言語に持ちこまれることによってこそ、その形成の根幹において他者と の現実的対話‐想像的なものに規定され、意味の確定を不断に曖昧な「他者の(への)要 求」として処理‐留保することで(かろうじて)成立している意味作用は、想像的=幻想的な ものと同一性に対し、真に破壊的なものへと反転する。強度‐反復のなかで、切り刻まれた 他者の存在と対になり、向かい合い、それに支えられることで、思考は現実の他者から分離した、抽象的な「叫び」の次元を獲得する(とはいえ叫びは誰か(=刻まれた他者)に向 けられているわけである)。

分裂病的な発話が、けっして機械的、無限増殖的ではなく、常 に絶対他者‐真理への関心をはらんでいること(精神病者は常に「存在論的」である)、悪循環の開始には、常に性的なもの(の抑圧)が関与するのはそのためである(ニーチェの いう「春」の情動)。

しかもさらに重要なことだが、ここで性的なものの再帰は意識以前の反復強迫のオーダー に属するゆえに、常に「意に反した」ものとして意識‐象徴世界の外から侵入し、そのため 常に言語‐象徴に従属している幻想にとって、それは必ず悪しきものである。幻想‐快感 原則に反する悪しきものでなければ、原理上性的なものでなく、その作動において、主体 は意識の場から失墜し、結局それ自身において切り刻まれる。それゆえ至高の真理(永 劫回帰)とは、常に悪魔の真理であって、忌まわしい。精神病的存在論において、真理と は直接にセックスのことだが、その真理は同時に疑われ、憎まれる。実際、性的なものの 発動としての反復強迫は、単純な反復でなく、常に何かを打ち消す意味的なものをもはら んでおり、これは破瓜型分裂病者の機械的所作でさえ垣間みられる。それゆえこの悪魔 の真理(主体の惨めさ)を受け入れるには、主体は再度、それを原初的な幻想(原光景)と 重ね合わせ、悪魔を母に書きかえて、それをすでに経験し知りつくした劇(主体の原初的 無力性という、より無害な惨めさ)として再編しなおす、マゾヒズム型の倒錯的防衛を経ね ばならない。その防衛‐光景内部では、すべてはあらかじめ知られた劇‐視像として展開し なおされるので、主体は無力さと引き替えにその場の暴力から外在化し、切り刻まれること を免れる。それは(疑似)精神病者のヒステリー的戦略であり、悪魔は幼い主体を前にした 安全な母親に縮減される。つまりここで主体は、絶対的な力をもつ外部である母親に従属 することで、意識(と無意識)の主体であることを失わされて、受動的な視線となるが、とは いえこの劇はあらかじめ未知の部分(無意識)を排除しているので、受動的な観客である ことと能動的な意識‐欲望の主体であることに内実的差異はない。無意識=記憶をもたな い意識とは、その場限りの視線と同じだからである。

この主体の外在化によって、外部から 来る主体の性的拍動としての悪は、主体の外側の劇として無害化され、意識/無意識、 能動/受動の差異の抹消と並行して、悪と善の境界は消失し、悪は悪のシミュラクルとな り、真の「善悪の彼岸」が訪れる(とはいえそこまで行き着くのは、ニーチェの後からきたク ロソフスキーである)。


 《悪循環=永劫回帰の開始には、常に性的なもの(の抑圧)が関与する》、とあって、この「性的」なもの、「抑圧」という語彙を嫌うひとがいるだろうけれど、悪循環=永劫回帰の「常に性的なもの」、そのトラウマがキライなひとは、ラカンもフロイトも読まなくてよろしい。

とはいえ、ここでの抑圧は、原抑圧とすべき、すくなくともそれをも含めての「抑圧」とすべきじゃないかな。

……フロイトは、疑いもなくそのことを知っていた。というのは、彼は抑圧の偽装よりもより深い証拠を探し求めていたからだ。もっとも彼はそれを“原”抑圧という似たような語彙にて考えていたが。われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ。さらに言えば、――それは結局は同じことだがーー我々は、抑圧するから偽装するのではない。偽装するから抑圧するのだ。そしてわれわれは反復の決定的な核心の力によって偽装する。(ドゥルーズ『差異と反復』英訳からの私訳)

Freud, no doubt, was aware of this, since he did search for a more profound instance than that of repression, even though he conceived of it in similar terms as a so-called 'primary' repression. We do not repeat because we repress, we repress because we repeat. Moreover - which amounts to the same thing - we do not disguise because we repress, we repress because we disguise, and we disguise by virtue of the determinant centre of repetition.ーー「二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」

このドゥルーズの反復をどう読むかは、--ひょっとして齟齬があるひともいるだろう。

偽装し差異化する力をもつ潜在的な原形質、という一元論的・超スピノザ主義的発想は、 かなりの程度ベルグソンに源を発し、同時に Dz が内在的に抱えていたイマージュによっている。後者に由来する彼自身の感覚が前面化する際には、特筆すべき固有点を彼のテキストは描き出すが(後述)、ニーチェやフロイトといった、主体の情動/思考の全過程 を動員する分裂病的‐神経症的な「ハードな現実」を、批判主義的執拗さをもって哲学的= 統一的に処理する際には、前者の欠点が前面化する。すなわち、対象関係(原初的対他者関係)からこそ発生する、攻撃的‐暴力的、つまり「弁証法的」な要素への無関心と、そ れ以上に、人間の身体‐情動の回路と、言語‐思考‐意味作用の回路が、系統‐個体発生的に起源を異にし、本質的亀裂をはらんでいることへの無関心である。既述のように、弁証法の排斥は、他者と抑圧(抑圧物の回帰)の問題系の忌避となり、その結果、絶対他者 や悪・侵犯を経由する倒錯的戦略を軽視して、現実には倒錯を通じてこそ結合している 強度‐身体と差異‐偽装を、腹話術的に短絡させてしまうことになる。そして身体と言語の オーダーの連結は、言語‐思考から離脱したゆえに出現するものとしての、反復(強度)と いう原初的な「世界‐意識の外からの」運動を、その運動を再解釈し、謎として構成しなお す、事後的‐神話的な思考内部で処理させることになる。(樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか?』1996)

クラインの「対象関係」へのラカンの異議としては、
母という全体的対象は、母それ自体として出現するのではなく、
エルンスト坊やの糸巻き遊びに代表されるような子供の反復遊びによる
現前-不在(+/-)の分節化によって出現する。
この分節化は呼びかけという領域でなされ、
母という対象が不在のときに呼びかけられ、
現前 するときには拒絶されることによって、
現前と不在が同時になりたつ(+/-)シニフィアンと なっている、と.

ただしこれはセミネールⅣの段階。
セミネールⅩⅠを経て、
セミネールⅩⅦ、ⅩⅩでなんやらややこしいことを言っている。

”jouissance is nothing but the inadequacy of the signifier to itself”

"Jouissance is what necessitates repetition,"

"jouissance is what serves no purpose [La jouissance, c'est ce qui ne serf a rien]"


ーーラカンは、ドゥルーズの『マゾッホとサド』をべた褒めしている、《しかし驚くべきことではないかと思うのは、こうしたテクストが本当の意味で、私が今実際に、今年切り開いた途上でいうべきことをすでに先取りしているということです》(1967年4月19日)。

一年後に出版された『差異と反復』(1968)にはコメントはないようだが、
やはりかなり影響受けているに相違ないので、
『セミネールⅩⅦ』1969での「反復」をめぐる発言なんてモロじゃないか


で、なんの話だったか。
ドゥルーズ派でいくのか、樫村晴香派でいくのかは、アナタしだいだよ
ーーとすれば、樫村を褒めすぎだけれど、1996年に書かれた論文として
今でも読むに値するすぐれた「ニーチェ」論だな

ところで、ジジェクは、反復のずれ(微細な差異)に対象aをみるんだな。

The objet a and pure repetition are thus closely linked: the a is the excess which sets repetition in motion and simultaneously prevents its success》

……ラカンにとって、反復は抑圧に先んずるものである。それはドゥルーズが簡潔に言っているのと同様である。《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)。次のようではないのだ、――最初に、トラウマの内容を抑圧し、それゆえトラウマを想起できなくなり、かつトラウマとの関係を明確化することができないから、そのトラウマの内容がわれわれに絶えずつき纏いつづけ、偽装した形で反復するーー、こうではないのだ。現実界(リアル)が極細の差異であるなら、反復(それはこの差異を作り上げるもの)は、原初的なものである。すなわち抑圧の卓越性が現れるのは、現実界から象徴化に抵抗する「物」への“具現化”としてであり、排除され、あるいは抑圧された現実界が、己を主張し反復するときに初めて抑圧は現れる。現実界は原初的には無である。だがそれは物をそれ自身からの分離する隙間なのであり、反復のずれ(微細な差異)なのである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私意訳)

ーーこの文を読めば、反復に関してはドゥルーズの見解に沿っているようにみえる。
ただし反復のずれ(微細な差異)を対象aとするのだ。

そしてジジェクのいう対象aは、究極的には、繰り返せばこうだ。

主体は、己のa(対象a)の完全な応答を得る/与えるのを確信するために、
(母)他者〔(m)other〕を独占したい。
だがそのような完全な応答は不可能である。
そこにはつねに残余があり、
“ Encore”(もっと、またもっと)の必要の切迫がある。
“ Drang ”(衝拍、もしくは圧力)は、ドライブ〔欲動の継続〕したままだ。(Paul Verhaeghe)


要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。

欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、
主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。
構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。
というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、
現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。

この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。
Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、
Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、
Post coftum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。

これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。
ということはどの主体もイマジナリーな秩序において
これらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。
これらのイマジネールな答は、
主体が性的アイデンティティと性関係に関する
いつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。

別の言い方をすれば、主体のファンタジーが
――それらのイマジネールな答がーー
ひとが間主観的世界入りこむ方法、
いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。

この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。
象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、
キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。

La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、
L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、
Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。

結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、
たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって
女たちは存在しないんだとさと公表した、
構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実を
かき消してしまうようにして。

たとえば、フロイトは書いている、
どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、
三つの避け難い問いに直面することだと。
すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、
父の役割、
両親の間の性的関係。



原初の喪失とはなにか? 永遠の生の喪失、それは、ひどく逆説的だが、性的存在としての出産の刻限に失われる。Meiosis(分裂)によるのだ。(ラカン「セミネールⅩⅠ」私訳)

Encore, encore !
享楽は、権力への意志=衝動である。
われわれのすべての欲動は、永劫回帰(反復強迫)する。

《Jouissance is the driving force in all these attempts to return to a previous level.》(Paul Verhaeghe)

こういうわけで間違ってるんだよ、
“純粋な”死の欲動は(自己)破壊への
不可能な“全的な”意志とするなんてのはね、
主体が母なる〈モノ〉の全体性へと回帰する法悦の自己消滅で
でもこの意志が実現されえないとか妨害されてとかで
“部分対象”に凝り固まるなんてのは。

そんな考え方なんてのは、
死の欲動を欲望とその喪失した対象のタームに再翻訳しただけさ。
欲望においては、現実の対象は不可能な〈モノ〉の空虚の換喩的な代役なのさ。
欲望においてこそ、全体性へのあこがれは部分対象へと配置転換されるってわけさ。
ラカンがいってるだろ、これを欲望の換喩だって。
ここのところは極度に厳密でなくっちゃな、
ラカンのポイントを捉えそこなわないようにな。
欲望と欲動を混同しないように、だな。

ニーチェかい?
権力への意志は原意志と「翻訳」したっていいさ
きみ次第だね

Davis's thesis is that this “rebellious whiling” refers to a non‐historical ur‐willing, a willing which is not limited to the epoch of modern subjectivity and its will to power.

まあでもやっぱり死の欲動のほうがオレの好みだね

But one should here raise a more fundamental question: is the Will the proper name for the “stuckness” which derails the natural flow? Is the not Freudian drive (the death drive) a much more appropriate name?(ZIZEK)

※死の欲動のドゥルーズやジジェクの考え方については、「攻撃欲動はタナトスではなくエロスである」を見よ。


さて、最後に付け加えておこう、《「善悪」の彼岸…… あれは少なくとも「よい・わるいの彼岸」ということではないのだ。--》(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 岩波文庫 P59)

とすれば、快原則の彼岸とは、快・不快の彼岸ということではないのだ、と言えるだろうか。