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2014年10月15日水曜日

「権力への意志Wille zur Macht」と「死の欲動Thanatos」

ニーチェの妹」記事にて、『権力への意志』の編集版によって《ハイデガーとドゥルーズが騙された》と書いたが、どう騙されたのかの内容は下記の通りであり、すくなくともドゥルーズの捉え方はたいした問題ではないようだ。

ふたたび、『思想の歪曲としての「力への意志」 : エリーザベト・ニ ーチェの場合』(須藤訓任 2012)より。

ハイデガーがニーチェ解釈において『力への意志』617 番をきわめて重要視したことはよく知 られていよう。 そこには「生成に存在の性格を刻印すること―これが最高の力への意志である」 および「いっさいが回帰するということが、生成の世界を存在の世界に極限まで近づけることで ある。考察の頂点」という二文章が含まれるとともに、全体は「要旨再録Recapitulation」と題 されている。

手元には英訳しかないのだが、WALTER KAUFMANN & R. J. HOLLINGDALEの英訳では、この617番の注にこうある。《Gast entitled this section "Recapitulation," and al1 printed versions retain this title.

このアフォリズムはハイデガーによれば、 「ニーチェ哲学の主要点を数文章で総覧 したもの」であって、それが「ただならぬ明澄さ」をもって表現する「強調された表題」の意味 するところでもある。それだけ、この題名自身がまたハイデガーにとって重要なものであった。

ところがこの題名は現行の全集には見当たらない。それはニーチェ自身ではなく、P・ガストの 手になるものである。ガストは体系的配慮のもと、同書第三部の第一章(ミュラー=ラウターは 最終章と書いているが手違いだろう)の最後を飾るこのアフォリズムにかかる表題を付したので ある。しかるに、ハイデガーも所有していた『力への意志』全集版(1911)の編集者Otto Weißの注には、それがガストの手になる表題であることが明記されているのである。 (なお、このア フォリズムは1901 年版では正確に再現されている。 )ハイデガーは一方で、 『力への意志』とい う書物の問題点をいろいろ指摘しながらも、 同書にはニーチェが書いたものしか含まれていない、 という誤った前提に縛られていたように思われる。

他方、G・ドゥルーズのニーチェ解釈( 『ニーチェと哲学』 )において、 『力への意志』の次の619 番のアフォリズムが一つのキーポイントとなっていた。 「 「力」 という勝ち誇った概念には (…) 補完が必要である。それには内的意志が付与されねばならないのであり、その意志を私は「力への意志」と表示するのである。Der siegreiche Begriff „Kraft“ (...) bedarf noch einer Ergänzung: es muß ihm ein innerer Wille zugesprochen werden, welchen ich bezeichne als „Willen zur Macht“.」

ドルーズは このアフォリズムを、 (概念としての) 「力への意志」を理解するための最も重要なテクストの一 つとみなし、これによって「力への意志der Wille zur Macht」と「諸力die Kräfte」の違いが説明 されるとして、 「力はなしあたうものであり、力への意志は意欲するものであるLa force est ce qui peut, la volonté de puissance est ce qui veut」と対比付ける。

ミュラー=ラウターはこの理解を、 ニーチェの力の一元論を二元論にするものだと批判するとともに、実はテクスト自身がニーチェ の記した文章の正確な再現でないことを明らかにする。というのも、 「内的意志ein innerer Wille」 なる語は現行の全集では「内的世界eine innere Welt」となっているからである(したがって関係詞welchen もwelche となっている) 。これまたガストによる変更である(似たような変更は他に もあるという) 。この場合―ニーチェの自筆原稿に当たったミュラー=ラウターによると― ニーチェの筆跡ははっきりしていて、解読に逡巡はあり得ない。

619番の英訳は次の通り。

《The victorious concept "force," by means of which our physicists have created God and the world, still needs to be completed: an inner will must be ascribed to it, which I designate as "will to power," i.e., as an insatiable desire to manifest power; or as the employment and exercise of power, as a creative drive, etc. Physicists cannot eradicate "action at a distance" from their principles; nor can they eradicate a repellent force (or an attracting one). There is nothing for it: one is obliged to understand all motion, all "appearances," all "laws," only as symptoms of an inner event and to employ man as an analogy to this end. In the case of an animal, it is possible to trace all its drives to the will to power; likewise all the functions of organic life to this one source.》

筆者ミュラー=ラウターは明言していないが、ガストのこうした訂正は「分かりやすさ」を意図してのものだといってよい。そして、それが場合によってニーチェ理解にとっていかに致命的 な結果をもたらすか、とおそらく示唆したいのだろう。ただし、私としては、筆者が言うほど、 ドゥルーズの場合決定的な違いがもたらされるのかは、少し疑問がないでもない。

たしかに、ニ ーチェの文言が無断で「訂正」されたのは、論外である。しかし、eine innere Welt のままでも、 十分ドゥルーズの解釈は導出可能に思われるからである。とくに、上述の619 番の引用の続きを 見るとその観を強くする。 「 (…)それには内的世界が付与されねばならないのであり、その世界 を私は「力への意志」と表示するのである。すなわち、力の誇示への倦むことなき欲求として、 あるいは、力の使用・行使への欲求として、創造的衝動等々として。es muß ihm eine innere Welt zugesprochen werden, welche ich bezeichne als „Willen zur Macht“, d. h. als unersättliches Verlangen nach Bezeigung der Macht; oder Verwendung, Ausübung der Macht, als schöpferischen Tieb usw.」

ここで「内 的世界」とは「意志」的なもの、欲求や衝動に類するものと考えられていることは疑問の余地が ない。この点で、ミュラー=ラウターは自身の多元主義的な「力への意志」解釈を基準としてド ゥルーズを指弾している趣がないでもない。 (このように自分の理解を基準に他人の理解を寸断 するというのが、ある意味で問題の根源をなすとも言えよう。とはいえ、自己を基準とした他者 理解はあらゆる理解の基本型なのであって、それを完全に禁欲することなぞ求めるべくもない。 そのかぎり、「内的意志」 と「内的世界」の差異の強調はミュラー=ラウターからするなら、当 然のことなのかもしれない。 この差異が言うほど重要なものなのかどうかは、 いま述べたように、 疑念も提示可能である。

この箇所における、ドゥルーズの読みは、大きな問題はない、とすることができるだろう。

そしてクロソウスキーの'impulse'についても齟齬はない。

Nietzsche himself had recourse to a varied vocabulary to describe what Klossowslu summarizes in the term 'impulse': 'drive' (Triebe), 'desire' (Begierden), 'instinct' (Instinke), 'power' (Machte), 'force' (Krafte), 'impulse' (Reixe, Impulse), 'passion' (Leidenschaften), 'feeling' (Gefiilen), 'affect' (Afekte), 'pathos' (Pathos), and so on.
(”Translator’s Preface” Nietzsche and the Vicious Circle PIERRE KLOSSOWSKI Translated by Daniel W. Smith)

「ニーチェの妹」で書いたことを繰り返せば、クロソウスキーとドゥルーズを混淆させて、「権力への意志Willen zur Macht」は、「〈力〉puissanceへの衝動impulse」と言うことが可能である。

そしてそのとき、フロイトが『マゾヒズムの経済問題』で書いた次の言葉のつらなりをどう捉えるか。

破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志》
(Destruktionstrieb, Bemächtigungstrieb, Wille zur Macht)

その箇所の邦訳をもう少し長く引用すれば次の如し。

(多細胞)生物においてリピドーは、細胞中に支配する死あるいは破壊の欲動にぶつかる。この欲動は、細胞体を破壊し、個々一切の有機体単位を無機的静止状態(たといそれが単に相対的なものであるとしても)へ還元してしまおうとする。リピドーはこの破壊欲動を無害なものとし、その大部分を、しかもやがてある特殊な器官系、すなわち筋肉の活動の援助のもとに外部に放射し、外界の諸対象へと向わせる。それが破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志とかいうものなのであろう。この欲動の一部が直接性愛機能に奉仕させられ、そこである重要な役割を演ずることになる。これが本来のサディズムである。死の欲動の別の一部は外部へと振り向けられることなく、有機体内部に残りとどまって、上記の随伴的性愛興奮作用によってリピドーに奉仕する。これが本来の、性愛的マゾヒズムである。(『マゾヒズムの経済的問題』におけるBemächtigungstrieb

こういうわけで当面、「権力への意志Wille zur Macht」は、死の欲動として類似したものと扱うことができるという仮説が成り立つ(やや詳しくは「ニーチェの妹」を参照のこと)。

欲動とせずに死の欲動としたのは、すべての欲動は潜在的には死の欲動であるのだから。

《…toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.》 (Lacan Ecrit 848)

快感原則はすべてに支配権をふるいはするが、それを統禦するものではないというべきなのだ。快感原則に例外はないが、その原則には還元しがたい残滓が存在するのである。快感原則に逆らうものは何もないが、その原則の外部にあるもの、異質な何ものかーーつまり彼岸……が存在するということなのである。(……)

まず、一領域を統轄するものを人は原則と呼ぶ。その場合は、原則とは経験的な原理または法である。かくして快感原則は、<エス>にあって心的生活を統轄する(例外なしに)。だが、その領域を原則に従属せしめるものが何かを知ることは、まったく別の問題なのである。それとは違った別の原理、次元が一段上の原則が必要であり、それが、経験的原理へと領域が従属する必然性を説明することになるのだ。超越的とはこの別の原理のことである。快感は、心的生活を統轄する限りにおいて原則なのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)
エロスとタナトスは二つの相反する欲動ではない。それらは競合し、(エロス化されたマゾヒズムとしての)二つの力を結合させるものではない。ただ一つの欲動、リビドーがあるだけでありそのリピドーはただひたすら享楽を追い求める。(ドゥルーズ『差異と反復』英訳からの私訳)
eros and thanatos are not two opposite drives that compete and combine their forces (as in eroticized masochism); there is only one drive, libido, striving for enjoyment(Jouissance)ーー「ドゥルーズとジジェクの死の欲動」より

ニーチェには、すでに「快原則の彼岸」を語っているとして読める文章がある。

人間は快をもとめるのでは《なく》、また不快をさけるのでは《ない》。私がこう主張することで反駁(はんばく)しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。快と不快とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《権力の増大》である。この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの権力への意志を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。──不快は、《私たちの権力感情の低減》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの権力感情へとはたらきかける、──阻害はこの権力への意志の《刺戟剤》なのである。(ニーチェ「権力への意志・第三書・二・三・権力への意志および価値の理論 ちくま学芸文庫)
しかし、快を感ずるのは誰か?…しかし、権力を意欲するのは誰か?…不合理極まる問い!生物自身が権力意志であり、従って快・不快を感ずる働きであるとすれば!それにも関わらず、対立が、抵抗が、それゆえ相対的には、侵害する統一体が必要なのである…。(同上)

フロイトは、その『自己を語る』1925のなかで次のように書いている。

私は思弁のみに身を任せてしまったのではなく、逆に分析による資料を重視し、臨床的な技法的テーマを取り扱うことをやめなかった。私は哲学に近づくことは避け、大切な点ではフェヒナーに頼ることにしていた。精神分析がショーペンハウアーの哲学と広汎な一致があるとしても(彼は感情の優位性と性愛の意義を重視し、抑圧のメカニズムも知っていた)、私が彼の本を読んだのはずっと後になってからだ。ニーチェの洞察も精神分析の成果と驚くほど合致するのだが、だからこそ公正さを保持するために避けてきた。

1914年にも、ニーチェを読むとあまりにも影響を受けすぎて、臨床観察の印象を損なってしまうという意味のことをフロイトは言っている。

さて、二人の偉大な思想家による「死の欲動」と「権力への意志」が、ほとんど同一なものだと仮に分かっただけでは、これでは何の意味もない。その人間の根源的な衝動ーーここでは仮に攻撃的な欲動としておくーーをどうやって飼い馴らすかが問題となるであろう。


超自我は「死の欲動」という概念の結果として考えられたのではない。逆に、欲動を自己規制するような自律的な超自我を説明するためにこそ、フロイトは「死の欲動」を想定したのだ。それによって、攻撃性は「死の欲動」の一部であると考えられる。そして、攻撃性を抑えるのは(内に向けられた)攻撃性である。そうだとすれば、攻撃性を抑制することは不可能ではない。そして、それが文化=文明化にほかならない。一言でいえば、文化=文明化とは、攻撃性を自己抑制するような社会的装置である。(柄谷行人「超自我と文化=文明化の問題」)

フロイト自身は次のように書いている。

倫理は、一つの治療の試みであり、これまでのいかなる文化作業によっても手に入れることができなかったものを超自我の命令によって手に入れようとする努力であると考えられる。われわれがすでに知っているように、ここでの問題は、文化にとって最大の障害である人類に生れる区の相互攻撃欲動をいかにして除去するかであり、まさにそれゆえにこそ、文化の超自我が出す命令の中では一番新しいものと思われる「お前の隣人をお前自身のように愛せ」という、あの命令がとくにわれわれの興味を惹くのである。(『文化への不満』最終章 著作集3 P494)

この論文のなかほどでは、「お前の隣人をお前自身のように愛せ」という命令をさんざん貶していたフロイトだがここにきて(最終章になって)、攻撃欲動を飼い馴らすのは「超自我」しかないと呟くことになる。

私の見るところ、人類の宿命的課題は、人間の攻撃ならびに自己破壊欲動による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどの程度まで抑えうるかだと思われる。(同 P496)

そもそもフロイトは「超自我」を敵に廻して、個人の治療をしてきた。

神経症を研究してその治療をしているうちにわれわれは、個々の人間の超自我を二つの点で非難せざるをえないようになった。すなわち超自我は、厳しい命令や禁令を出すばかりで、それらの命令や禁止にしたがうことにたいする抵抗ーーエスの欲動エネルギーの強さおよび現実の外界からのさまざまな障害ーーを充分考慮に入れないため、自我の幸福をあまりにも等閑視する。(同 P494)

フロイトの精神分析運動のおかげかどうか、われわれは超自我の斜陽の時代、象徴的権威の崩壊の時代に生きている。とすれば、自由に攻撃欲動が猖獗する時代であるともいえる。

権威が崩壊すれば、権力が自由に振舞う。

権威は権力と同じ意味ではない。実際、権力とは権威に対抗するものだとさえ主張したい。

Authority is not synonymous with power. In fact, I would even argue that power is directed against authority(『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』)

さてここでラカン派による「享楽の父」概念を捕捉しておこう。それは「母なる超自我」とも命名される。

今日の世界が「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代であると叫ばれるとき、その批判の内実が何を指しているのかを問えば、答えはまさに、「全体主義」国家の政治的<指導者>像から、自分の娘へのセクシャル・ハラスメントに手を汚す父親像まで、「原初の父」の論理に従って機能する人物像への回帰現象となるのである――それは、なぜか?「穏やかな顔」を覗かせる象徴の権威が機能不全に陥ってしまったとき、先細りする欲望が中途で頓挫する事態を回避する、つまり、本性的な欲望の不可能性を隠蔽する唯一の方法として残されているのは、欲望が達成できない根本原因を、原初の享楽者を意味する専制的な人物像に特定することなのだ。われわれが愉しむことができないのは、あの男が享楽の一切合切を独り占めしてしまうからに他ならないから、と……。(ジジェク『厄介なる主体』)

ここで、ジジェクは、「エディプスの父/原初の享楽の父」の対照を示しているが、それは「権威/権力」の対比のことなのであり、ラカン派では、この剥き出しの権力としての「原初の享楽の父」の審級を、「母なる超自我」とも呼ぶ。


リアルな(現実界的)超自我の側面(「享楽の父」、あるいは「母なる超自我」)をめぐって、ラカンの娘婿でもあるジャック・アラン=ミレールは次のように語っている。([PDF]The Archaic Maternal Superego-Leonardo S. Rodriguez - Jcfar.org

“The superego as senseless law is very close to the desire of the mother before that desire becomes metaphorised, and even dominated, by the name-of-the-father. The superego is close to the desire of the mother as a capricious whim without law.”

ようするに、「享楽の父」やら「母なる超自我」とは、欲望が隠喩化(象徴化)される以前の「父」の欲望の体現者なのであり、そこにあるのは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我であり、無法の勝手気ままな「母」の欲望と近似する。そして象徴的権威の失墜の時代とは、この「享楽の父」やら「母なる超自我」の至上命令が席巻する時代ということだ。

楽しみを強制するものはない。超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」(ラカン『セミネールⅩⅩ』)

どんな無法の勝手気ままが起こっているかと言えば、ここでは排外主義やネオナチの猖獗などといわないまでも次の浅田彰の言葉がそれを端的に示す。

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)

オブラートの時代とはまがりなりにも象徴的権威が機能した時代なのであり、いまはオブラートなしで、むきだしの「権力への意志」の勝手気ままが自由に振舞う時代だということだ。


ーーという具合であり、ラカン派女流分析家の第一人者であるコレット・ソレールは、「われわれの世紀は「父」をその役割に教育しなおさなければならない時代だ」と言うことになる。(参照:ナイーブなフェミニストたち、あるいは権威と権力


浅田彰がある時期からやっていることが機能しているかどうか別にして、彼の「王様を笑い続ける少年」から「頑固親父」への変身はこのあたりに関わるものと見なすことが出来る。

あらゆる理念がついえ去ったのであればもはやホンネに居直るしかないというシニカルなホンネ主義に抵抗するために、それまで「王様を笑い続ける少年」だった彼が、今や、不本意で面白くないのを重々承知でゴリゴリの「頑固親父」という役割を演じようとしていること……(自主講座「ゲスト浅田彰」

これはモダンにおける「理念」、そしてモダン批判の「王様を笑う」、そしてもう一度モダンの「頑固親父」の役割を担うという流れなのだが、そこらへんの人間が「頑固親父」として振舞うと前近代(プレモダン)となってしまう、--こういった頑固親父がツイッターの発話者には多いーー、というわけで、貧乏人は浅田彰の真似をするなよ。

柄谷行人)蓮實さんが共同体のなかでやるというとき、それをいわば保証している外部性があると思うんですね。これは浅田彰がうまい言い方をしたと思うんですが、「貧乏人は蓮實の真似をするな」と(笑)。「貧乏人」というのは、いわば外部性をもたない共同体の人間のことですね。そういう者が真似をすると、まさに蓮實さんがさっき言われたような否定面しか出てこない。(『闘争のエチカ』)

オレかい? だから「貧乏人としての頑固親父」的なことを書くときは、「表題」外してんだよ、つまり「リベラル・アイロニスト」に読まれないようにな。

・リベラル=「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える」手合、

・アイロニスト=「自分にとって重要な信念や欲求が、時間と偶然の範囲を超えた何ものか、つまり〈真理〉に関連しているのだという考えを捨て去る」連中

ーーこういった阿呆たちに読まれないようにな。


※「Homo homini lupus、あるいは攻撃欲動(ニーチェとフロイト)」へと続く