このブログを検索

2014年11月10日月曜日

密封した千の瓶の亀裂の肉体を顕示せよ

密封した千の瓶

とたいした意図もなく前回の表題にしたが
あらためて眺めると美しい字面だなあ
吉岡実の詩句と同じぐらい

…………

美しい魂の汗の果物

誠実な重みのなかの堅固な臀

洗濯物は山羊の陰嚢

母親の典雅な肌と寝間着の幕間で

いまは緑の繻子の靴に踏まれる森の季候

賢い母親は夏の蝉の樹木の地に

数ある仮死のなかから溺死の姿を藉りる

驚愕した陶器の顔の母親の口が

赭い泥の太陽を沈めた

くらい鏡の割目からもりあがってくる水

女はもろもろの疑似割れ目を表現し

恥らう楕円のなかの裂け目で

亀裂の肉体を顕示せよ


…………

吉岡実の詩句は横書きにしても美しいのだけれど
(西脇順三郎は縦書きなんだよなあ)
なぜだろ?


ある人は、わたしの詩を絵画性がある、または彫刻的であるという。それでわたしはよいと思う。もともとわたしは彫刻家への夢があったから、造型への願望はつよいのである。

詩は感情の吐露、自然への同化に向かって、水が低きにつくように、ながれてはならないのである。それは、見えるもの、手にふれられるもの、重量があり、空間を占めるもの、実在―――を意図してきたからである。だから形態は単純に見えるにしても、多岐な時間の回路をもつ内面構成が必然的に要求される。能動的に連繋させながら、予知できぬ断絶をくりかえす複雑さが表面張力をつくる。

だからわたしたちはピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつことが必要だ。中心とはまさに一点だけれども、いくつもの支点をつくり複数の中心を移動させて、詩の増殖と回転を計るのだ。暗示・暗示、ぼやけた光源から美しい影が投射されて、小宇宙が拡がる。(吉岡実「わたしの作詩法?」より)