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2014年11月8日土曜日

オーレル・ニコレ&Swingle Singersのバッハ管弦楽組曲

かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思い」その一。

◆The Swingle Singers - Badinerie (Johann Sebastian Bach)




◆Bach - Bwv1067 Orchestral Suite - 07 - Badinerie (Ton Koopman, Amsterdam Baroque Orchestra)




40年前は日課のように聴いた頃もあったのだが、最近はまったくご無沙汰だった。いいねえ、ひさしぶりに聴くと。オーレル・ニコレで聴いたのだが、YouTubeには見当たらないな。

かわりにこのカール・リヒターとのフルート・ソナタ。いいなあ、これも。

◆J.S.Bach Sonata for Flute and Cembalo BWV 1031-Karl Richter and Aurele Nicolet




最近の連中はどうなんだろ? Emmanuel Pahudのがあるけど、アイツ生意気そうでなんだかキライなんだよな、出しゃばり過ぎだよ。渋みもないしな。


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◆J. S. Bach-Swingle Singers - Transcription of 1st Movement from Brandenburg Concerto n. 3 BWV 1048



◆Bach: Brandenburg Concerto No. 3 in G major, BWV 1048 (Freiburger Barockorchester)




◆J. S. Bach - Ricercare a 6 from "Musikalisches Opfer" BWV 1079 - Jazz-Voices transcription




この音楽の捧げ物のRicercare a 6は、カール・リヒターのアーノンクールのもチェンバロで面白くないので、かわりにオーレル・ニコレのフルートが聴ける第12曲トリオーラルゴTrio - Largoを貼り付けておく。


◆Trio - Largo BACH Musikalisches Opfer BWV 1079 /Karl Richter





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故郷の小都市にカフェ・バロックという小さな喫茶店があり、そこにはチェンバロが置いてあった。店主が古楽器のリコーダー好きで、一年に一度ほど、名の知れた演奏家を招いた。30人も入れないスペースである。

高校2年生のとき、小林道夫氏を招いて、バッハのゴールドベルグ変奏曲をチェンバロでやった。小林道夫氏はいまでも東京芸大でカンタータなどを教えているようだ。





40年ほど前の当時オーレル・ニコレの日本公演の伴奏者としても名高かった。いま調べてみるとこうある。

伴奏ピアニストとしても、過去に来日した多くの世界的ソリストと共演し、バリトン歌手ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、テノール歌手エルンスト・ヘフリガー、チェロ奏者ピエール・フルニエ、ソプラノ歌手アーリーン・オジェー、フルート奏者オーレル・ニコレなど錚々たる演奏家の伴奏を勤め、どの演奏家からも高い評価を受け、信頼を得ている。(ウィキペディア)

カフェ・バロックでの演奏そのものはいささか失望した、グールドのゴールドベルグのようなものを聴くつもりでいったのだから。まあそれはこのさいどうでもよろしい。

カフェ・バロックの主人は相当年配のはずだが、あの店はいまでもあるのだろうか、と思い調べてみると今年11月に閉店予定とあった。




※「見すてられた石切場」より。

きょうの私自身は、見すてられた石切場にすぎず、その私自身はこう思いこんでいる、この石切場にころがっているものは、みんな似たりよったりであり、同一調子のものばかりだと。ところが、そこから、一つ一つの回想が、まるでギリシアの彫刻家のように、無数の像を切りだすのだ。私はいおう、――われわれがふたたび見る一つ一つの事物が、無数の像を切りだす、と。たとえば本は、その点に関しては、事物としてこんなはたらきをする、すなわち、その背の綴目のひらきかたとか、その紙質のきめとかは、それぞれそのなかに、りっぱに一つの回想を保存していたのであって、当時の私がヴェネチアをどんなふうに想像していたか、そこに行きたいという欲望がどんなだったか、といったことのその回想は、本の文章そのものとおなじほど生き生きしている。いや、それ以上に生き生きしているとさえいおう、なぜなら、文章のほうは、ときどき障害を来たすからで、たとえばある人の写真をまえにしてその人を思いだそうとするのは、その人のことを思うだけでがまんしているときよりも、かえってうまく行かないのである。むろん、私の少年時代の多くの本、そして、ああ、ベルゴット自身のある種の本については、疲れた晩に、それらを手にとることがある、しかしそれは、私が汽車にでも乗って、旅先の異なる風物をながめ、昔の空気を吸って、気を休めたいと思ったのと変わりはなかった。しかも、求めてえられるその種の喚起は、本を長くよみつづけることで、かえってさまたげられることがあるものだ。ベルゴットの一冊にそんなのがある(大公の図書室にあるそれには、極端にへつらった俗悪な献辞がついていた)、それを私は、ジルベルトに合えなかった冬の一日に読んだ、そしていまは、あのように私が愛していた文章を、そこからうまく見つけだすことができない。いくつかの語が、その文章の個所を私に確信させそうだが、だめだ。私がそこに見出した美は一体どこへ行ったのか? しかしその書物自身からは、私がそれを読んだ日にシャン=ゼリゼをつつんでいた雪は、はらいのけられてはいなくて、私にはいつもその雪が目に見える。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)